アシッド

心路は、鏡の上に散らばった粉を指で集めて歯茎に塗り付けると、少し渋い表情で口の中を舐め回し、おもむろに智に向かって口を開いた。

「そういえば智、ブラウンやったんだ。初めてだよね? ここで直規君と二人でやったの?」
「いや、ここに来る前に朝、自分の部屋でやったんだ、何だか我慢できなくって」
「起きてすぐ? ハハハ、凄ぇな、気持ち悪くならなかった?」
「ああ、大丈夫だった。一応」
「そうか、普通みんな初めての時は気持ち悪くなって吐くもんなんだけどな。合ってんのかもよ」
「そんなにたくさんやってないから」
「でも今は、俺と同じぐらい入れたぜ」

直規が横から口を挟んだ。

「ほら、やっぱ合ってんだよ」

智は、何だか褒められているような気がして、少し嬉しい気分になった。

「昨日なんて俺、朝まで吐いてたもん」

鼻を啜りながら心路が言う。

「うん、でも嫌いじゃないよ、この感じ、アシッドとかに比べたらまだ安心感がある」

一瞬、直規の視線が緊張した。直規は、手で弄んでいたCDケースを投げ捨てるように横に置いた。

「そういえば智、アシッドでひどい目に遭ってんだよな。自殺しそうになったって」

心路の方に向き直って智は話し始めた。

「ああ、あのときは南インドの海辺に面した小さな村で物置きみたいな部屋で一人だったし、しかも夜だったからひたすらアシッドの世界にどっぷり浸かっちゃって、本当、死ぬかと思ったよ。だんだんアシッドがキマッてくるんだけど、音楽も何もなくってすることなんて何もないから、ずっとペットボトルの水を光に翳して遊んでいたんだよ。そうしたら、その、キラキラ光る光の向こうに天国じゃないけど、何だか凄い世界が見え始めて、ああ、そっちへ行きたいなって思っていると、どうしてもこの肉体が邪魔になって行くことができないんだ。で、どうしたらいいんだろうって考えてたら、ああ、死ねばいいんだってことに気がついた。でも、そこには冷静な自分もちゃんといて、だめだ、そんなことしたら死んでしまう、って慌てて呼び止めるんだ。ああ、そうか、死んじゃだめだ、ってそれの繰り返し。一晩中ずっとそんなだった。考えないでおこうとどんなに努力しても、たとえ目をつぶっていたとしても、どうしてもその光の世界が見えてきて、そうしてその世界が見えてくると自然に、ああ、そっちの世界へ行きたい、って思ってしまうんだ。気が付くと、ナイフの入ってるバックパックのポケットをじっと見つめたりしていたよ。そして、ああ、だめだ、だめだ、って何も考えないように横になってじっとしていると、遠くからさざ波の音が聞こえてきて、それがとても綺麗に聞こえるものだからうっとりと聞き惚れていると、今度は、俺、部屋の扉の前に立って、海へ行こうとしてるんだ。そこでまた、ハッと冷静になって、何してるんだよ、って自分に言い聞かせて……。それでその次は何したかっていうと、こんなことしてちゃ駄目だって、外へ出て行かないように南京錠で内側から扉に鍵をかけようとしてるんだよ。そしたらそうする自分の映像がとても客観的に頭に浮かんできて、そんなことしてる奴ってちょっとおかしいだろ? まるで精神病みたいじゃん、だから凄く不安になってベッドにうずくまって、って一晩中そんなことをしていたよ。凄く恐かった」

百ドル札

「俺だけ仲間外れ? ずるいな、二人とも」
「お前もやればいいだろ?」
「でも直規君、俺が帰ってきたら飯喰いに行くって言ったろ? どうするの? そんなにキマッちゃってたら無理じゃんか」
「もういいよ、飯は。それより心路、水買ってきた、水?」

心路は、半ば呆れ気味に買い物袋からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出した。それらは二本とも冷たく凍っていた。

「うおっ凍ってるよ、サンキュー、シンジ、お前偉いよ」

それを頬に当てながら直規はそう言った。

「凍ってるやつ売ってる所見つけたんだよ」

直規は、ペットボトルの蓋を捻ると、ゆっくりと二口三口飲み込んだ。

「ああ、おいしい、たまんねぇなこりゃ」

心路は、直規のその様子を少し冷めた目で眺めながら、自分もその凍った水を飲んだ。そして智の方へペットボトルを差し出して、飲む? と言った。智は、ゆっくりと体を起こして、ありがとう、と言ってそれを受け取った。

濡れたペットボトルはとても冷たい。一口、口に含むと、口の中全体が冷んやりと潤っていく。喉を伝って胸の辺りまで一筋の清水がさらさらと通っていくような感じだった。
そのイメージは、智をとてもうっとりとした気分にさせた。

「直規君、じゃあ、もう行かないんだね」

心路がそう尋ねると、直規は面倒臭そうに頷いた。心路は、呆れたように首を傾げると、荷物を部屋の隅の方へ簡単にまとめてトイレに入った。ジョボジョボと小便の音が聞こえてくる。安宿なので扉らしい扉はなく、仕切りのような物があるだけだ。ダイレクトに音が伝わってくる。

「直規君、ゲロ吐いたでしょ、ちゃんと拭いといてよ。便器に飛び散ってるよ」

小便をしながら心路が言った。

「分かってるよ、あとからやるからいいだろ」

面倒臭そうに直規はそう言った。

トイレから出てくると心路は床に座り込んで、テーブルの上に無造作に置かれた紙包みを手に取った。そしてそれを広げて茶色い粉を耳かきですくうと、鏡の上で細かく刻んでラインを引いた。直規は、横目でそれを見ながら、何だ、やるんじゃんかよ、と呟いた。

「だって二人ともそんななのに、俺だけシラフでいられないでしょ。それより直規くん、百ドルどこ? 百ドル」
「え、百ドル? ああ、百ドルね、ええっと、確か昨日使ったやつが、ああ、ここにあるよ」

そう言って直規は、筒状に丸められた百ドル札を無造作に心路の方へ放り投げた。心路は、サンキュ、と言って上手にそれを受け止めた。智は、その様子を眺めながら心路に尋ねた。

「何でわざわざ、百ドル札使うの?」

心路は、ハハハ、と笑って答える。

「ああ、これね、ワンハンドレッド・ユーエス・ダラー。ほら、よくあるじゃん、映画なんかでコカイン吸ってる奴、百ドル札丸めてやってるだろ? だからそれ真似してさ、気分だよ、気分」

そう言いながら、丸めた百ドル札で鏡の上のブラウンシュガーを吸っている心路を智は微笑ましく見守った。ちょうど同じようなことを考えながら、そうしていた自分を思い返して、みんな考えることなんて似たようなものなんだなと、ちょっと温かい気持ちになった。

錯綜

だんだんと体が重くなる。肩や腰が、ずん、と下に落ちるように力が抜けていくのが分かる。直規は、どこを見るともなく、ぼんやりと宙を見つめている。薄目を開いて笑みを浮かべている。しかし、ああ、と快楽の溜め息を一息ついた途端、急に表情が曇りだし、智に、吐いてくる、と一言言い残してトイレに駆け込んだ。トイレから、苦しそうな呻き声と共に吐瀉物の水に落ちる断続的な音があからさまに聞こえてくる。智は、同情心と不快感の入り交じった複雑な気持ちでそれを聞いていた。

感覚の波は更に激しく智を襲う。次第に感覚のうねりが強まっていく中で、智は、精神的な錯綜を恐れていた。レールの外れたジェットコースターのようなドラッグのパラレルワールドには、常に不安と恐怖がつきまとう。そのまま地面に激突してしまうかもしれない。永久に帰って来られないかもしれない。ドラッグで死んだ旅行者や、おかしくなったまま日本に送り返された旅行者の話など、旅の中で智は嫌と言う程聞かされてきた。自分がそうならない保証などどこにもない。

断片的に、ゴアの風景が思い出される。椰子の葉や、砂浜や、さざ波の音、ギラギラと照りつける南国の太陽、日焼けして、色とりどりの衣装を身にまとい踊る人々。トランスミュージックの単調で原始的なリズムが智を記憶の中へと誘っていく。智は誘われるがまま、手を引かれるように記憶の世界へと入り込んでいった。暗闇の冷たさを背後にひりひりと感じつつ、思い出の情景の中を智は舞っていた。

「ぐおっ、ああ、吐いた、思いっきり吐いたよ……」

突然直規が、咳払いをしながら戻ってきた。そして智を見るなり、智、キマッてるなあ、凄ぇ良さそう、と言った。

「ああ、ゴアのこと、思い出してた。このCD聴いてたら色んな光景が蘇って来て……」

直規は無言で智に微笑みかけた。智は、自分でも気付かない間に、完全に横になっていた。直規のバックパックを勝手に壁に立てかけ、それに頭を乗せてごろりと寝転んでいる。
その体勢を少し崩して直規の方に体を向けた。直規は、そのままベッドに身を投げ出すようにして倒れ込んだ。と、その時、突然入り口の扉が開いて薄暗い部屋にサッと光が差し込んだ。驚いて二人は扉の方に目をやった。心路だった。

「何だよ、心路かよ、ビビらせんなよ」

直規は、再びぐったりとベッドに倒れ込んだ。心路は、買い物袋を床に置きながら二人の様子をまじまじと眺めた。

「何だよ、二人ともキマッてんの?」
「ああ、パキパキだよ、パッキパキ」

直規が、外からの光に眩しそうに手を翳しながらそう言った。

「何? ブラウン?」

智が微笑みながら頷いた。

トランスミュージック

「ちょっと俺、町見て回りたいし、買い物とかもしたいし……。それに今朝やったばっかりだし……」
「そんなのいいじゃんか、昨日の晩さんざん歩いたろ? 買い物だって明日すればいいよ」

そう言うと直規は、紙包みを広げて鏡の上で粉を刻み始めた。そうして手早くラインを二本作ると、智の方に差し出した。もう断り切れそうにもないので、智は仕方なくそれを受け取った。直規は、ルピー札を手早くくるくるっと丸めると、智の方に放り投げる。智は、上手い具合にそれを受け取って、鼻にあてがいゆっくりと吸引した。そして鼻を押さえて少し上を向きながら鏡を直規に手渡した。直規は、それをベッドの上に置いて身を屈め、一気に吸い込んだ。そしてCDケースからCDを一枚取り出し、テーブルの上のポータブルプレーヤーにセットした。プレーヤーには携帯用にしては少し大きめのスピーカーが接続されており、一般のステレオデッキに劣らないぐらいの音質と音量での再生が可能となっている。

智達がゴアで絶えず聴いていたトランスミュージックが流れ始める。単調に連続する重低音で部屋の空気が振動する。絡み合う音のうねりが智の意識を包み込み、智は、目の前に広がっていく音と映像の波に次第に呑み込まれていった。

智は、今、ゴアを思い出している。あの独特の感覚が蘇って来ている。地に足の付かない、常に夢の中をふわふわ泳いでいるような感覚。

ゴアという町は独特だった。そこは、智がそれまで旅してきたどの町にも似ておらず、一際異彩を放っていた。表面上は、ビーチに椰子の木が生えているような典型的な南国の風情なのだが、一旦そこに足を踏み入れて生活してみると、自分が何とも言えない違和感に包まれているのに気付くのだ。その違和感は、そこにいる間、絶えずしこりのように体にまとわりついて、常に不快感を与え続ける。しかしその不快感こそが、あらゆる酩酊の裏側に潜む影の部分のようなものに似て、それを常に感じ続けることこそが、まさにゴアの特異性であり、魅力でもあった。ブラウンシュガーの酔いと流れているトランスミュージックは、その感覚を呼び覚まし、不安や焦燥と共に智を茫漠とした意識の海へと追いやっていくのだった。

智は、ゴアという小さな町を、透明な見えないアクリル板によって外界から隔絶された、特別な空間としてイメージした。今感じているこの感覚は、その空間にいる間中ずっと感じ続けていたもので、それは一歩そこから出た途端に、すっと消えてなくなってしまうようなものだった。既に忘れてしまっていた感覚だった。智は、ゴアで過ごした日々のことを、今、必死に思い出そうとしている。そこには、何か智が忘れてしまいつつある大切なものが眠っているような気がするからだ。

耐性

「で、どうだったの?」
「いや、何か、思ってたのと違ったよ。もっと凄いの想像してたから……。昨晩の直規達の様子も見てたし……」

直規は、微笑みながら煙草に火をつけた。そして眠そうに欠伸をひとつすると、智の方へ体を向けた。

「俺も帰ってからかなり大変だったけど、心路なんか朝までずっと吐いてたよ。宿の奴が、心配して見に来たぐらい」
「みんな最初はそうなるもんなの?」
「ああ、何回かやってるとそのうち吐き気がしなくなってくるんだ。耐性ができるんだよ。三四日ぐらいかな」
「俺は、今朝やってみたんだけど吐き気は全然しなかったよ」
「量が少なかったんだろ」
「だからかな」
「それか合ってんのかも」

直規は、灰皿に灰を落とすとにやりと微笑んだ。

「でも、そんなに何回も吐いたら辛いだろ? またやろうっていう気になるもんなの?」
「吐いても気持ちいいんだよ」

智の目を見ながら直規はそう言った。

「………」
「吐いて、吐いて、吐いて、しまいに吐かなくなって、そっからが気持ちいいんだ。最高の気分になれる」

智はしばらく無言で直規を眺めた。直規は、少し疲れた様子で煙草を吸っている。

「ところで、心路は? どこ行ったの?」
「ああ、何か買い物行ったよ、トイレットペーパーとか歯磨き粉とかそんなの」

昼間の強烈な太陽が町を熱している。暑い。直規は、上半身裸でベッドに寝そべっている。日差しを避けられる部屋の中はまだましだが、それでも四十度近くはあるだろう。じわじわと汗が吹き出し、滴り、ぐったりとしてくる。ペットボトルの水はもうすっかり生ぬるくなっていた。

「暑いな」

直規は、顔をしかめて煙草を揉み消しながらそう言った。

「やる?」
「え?」
「ブラウンだよ、やらない?」

智は少し躊躇した。

覚醒

砂漠地帯の朝は眩しく乾燥している。日中の倒れるぐらいの日差しと暑さはまだ息をひそめており、真っ青な濃い空と眩しい光だけが町を覆っている。土地の人々は、そんな気候をよく知っていて、清々しい朝を最高の気分で迎えられるように町を造っている。建物を立てている。

智の泊まっているゲストハウスは、二階建てで小さな中庭のある小じんまりとした建物だった。土壁のような物で造られている外壁は、漆喰で塗ったように白く、砂漠の朝の透明な光を全身で跳ね返している。建物の屋上を歩くと、朝の日光で熱せられた地面が素足に心地良い。白い建物と濃い青空のコントラストがとても眩しい。

プシュカルの町の全景をそこから見渡しながら、智は深く息を吸った。まだ太陽に熱せられる前の冷ややかな空気が体内を冷却する。静かな、落ち着いた気分になる。智は、両腕を広げて日光を全身に浴びた。

部屋に戻ると外の明るさの余韻で室内が少し暗く感じられる。そのせいで周りの景色がとてもクリアに見える。智は、おもむろにベッドの上に立ち上がって天井裏に手を伸ばした。紙包みは確かにそこにあった。ベッドの上に座り直しゆっくりとそれを広げる。茶色い粉は円形に盛られている。智は、耳かきを取り出してその粉を少しすくうと手鏡の上にそれを乗せた。もう、やると決めていた。心臓の鼓動が速くなっていくのが分かる。直規にもらった剃刀の刃で、その粉を細かく刻んだ。更にその砕いた粉で細く一本の筋を引いた。インドルピー札をくるくると筒状に細く丸め片鼻にあてがって鏡の上に屈み込む。

智は、今、そんな自分に酔っていた。今の自分の状況を、映画や小説のワンシーンになぞらえてそれら一連の行為を楽しんだ。そして一息ついて軽く目を閉じると、鏡の上の一本の筋をなぞるようにゆっくりと吸い込んでいく。鼻の粘膜を粉が刺激する。粉は、溶けて、じわじわと智の体内へと入り込んでいく。血管を通って巡った血液が、脳内へとその成分を運搬する。それは瞬間的に細胞を刺激した。一瞬景色が歪み、眩暈のようなものを感じると、倒れ込むように智はベッドに横になった。

ぐるぐると回る天井のファンが智の視界を占領した。白い壁に白いファンがゆっくりと回っている。そしてその音が、エコーのように拡張されて智の聴覚を刺激する。智の感覚は、ほぼ全部、天井で回るファンによって埋め尽くされていた。今の智の世界には、それ以外の情報が入り込んでくる余地は全くない。しかし頭の芯だけは妙に冴え渡っており、冷静さは保たれている。

次第に体が重くなる。音がシャープに入り込んでくる。体がだんだん沈んでいく。ベッドは弾力性を失い、そのまま智を深く呑み込んでいく。そしてそれとは対照的に、意識は徐々に覚醒し、精神だけが軽く浮遊しているような感覚を智は味わっていた。

朝の光が、白い壁に反射して、部屋中を柔かな白色が包み込む。乾燥した冷たい空気が微かに肌を撫でていく。智は、知らない間に自分が少し微笑んでいることに気が付いた。 
ああ、この感覚をもっと味わいたい、もっともっと味わいたい、智はそう思った。心が軽くなり、あらゆる不安は解消された。ただこうして横たわっていさえすれば幸せだった。
何もいらない。怒りも悲しみもなく、ただ、穏やかな風に吹かれているような感覚で満たされていた。目を閉じ、そこに見える風景さえ見ていれば、そこから聞こえてくる音楽さえ聴いていれば、もうそれだけで十分だった。想像力が全てを支配していた。智は神を意識した。神の国というものがもしあれば、実際もし本当にあるとするならば、そこに住む人々は、きっとこんな心持ちで生活していることだろう、優しく微笑みながら争いも無く、憎しみも無く、平和な世界で穏やかに生活していることだろう、そんな風に思った。

ゆっくりとした呼吸で、取り留めもなく、そんなことを智はずっと考え続けていた。砂漠の朝日の輝く中、白い部屋でベッドの上に横たわって、天井で回るファンをずっと眺め続けていた。気が付くと、智は涙を流していた……。

パーツ

部屋に帰ると、智は、ベッドに腰掛けて紙包みを広げた。そこには確かに茶色い粉が包みこまれていた。先程の直規と心路の様子を思い出す。反吐を吐きながらも恍惚とした表情で快感に溺れている二人。一体彼らは、空ろな目で何を見ていたんだろう。どんな世界をふらつきながら歩いていたのか。ちょっと想像がつかなかった。

ゾクゾクするような感覚を智は全身に感じていた。とても恐ろしいのだが、それ以上に惹きつけられている自分が恐かった。それが目の前にある。彼らのいたその世界へと続く階段は、智の前に施錠されずに解放されている。一人っきりで自由にできる。制約の無い自由というのは恐怖に似ている。抑制を失った欲求は、自分をどんな世界に引きずり込むとも知れない。糸の切れた凧のように無限の大空へと解き放たれていくような恐ろしさ、果てしなく広がる底の見えない海の中に沈んでいくような怖さ、そんなのと似ている。

智は、ハッと我に返って紙包みを丁寧に包み直すと、天井の板をずらしてそこへ隠した。そしてベッドに横になって、今日直規と心路に再会してから今までのことをゆっくりと思い返した。

直規達の部屋でマリファナを吸ったこと、クリシュナ・ゲストハウスのシバやタンクトップのこと、初めて見るドラッグ、ブラウンシュガー、そしてそれに酔った人達、まだうっすらとマリファナの作用の残った頭で取り留めも無くそんなことを思い返した。しかし、それら全体の実像はまるではっきりとしなかった。それらの現象に何らかの必然性や意味を求めようとするのだが、その途端智の手からすり抜けて、曖昧で混沌とした闇の世界へと紛れ込んでしまう。映像はぼやけ、記憶は曖昧になっていく。イメージはどんどん混乱していく。運命は、様々な現象を雑然と智の前に繰り広げ、何ごとも語りかけない。智は、繋げることのできないパズルのパーツのようなそれらの現象の一つ一つを、何とか繋げようと必死に努力していた……。

プシュカル

三人は、ゆっくりと夜のプシュカルの町を歩いている。ヒンドゥー教にとって聖なるこの町は、やはりそれなりの聖地の匂いのようなものを放っている。霊的な雰囲気を醸しだしている。それは例えばサドゥーと呼ばれる髪も髭も伸ばし放題の修行僧が町のあちこちに見受けられるからなのかも知れないし、直規達が泊まっているゲストハウスの近くにある湖に面した沐浴場で、朝日や夕日に向かって祈りを捧げる人達を日常的に見ることができるからなのかもしれない。やはり聖地と呼ばれる所にはそれなりに熱心な信者達が集まって来るので、何となくそれらの光景が心のどこかに引っかかっていて、知らない間に「聖地」というイメージが形づくられていくのだろう。プシュカルという町はそんな町のひとつだった。

その、聖地プシュカルの町を直規と心路はふらつきながら歩いていく。だんだんブラウンシュガーの効き目が強くなってきたらしく、もう二人とも目の焦点が定まっていない。
智の方を向いても、果たしてどこを見ているのか良く分からないぐらいだ。智は、少し心配になって直規に尋ねた。

「大丈夫?」

直規は、低く呻き声を上げながら智の方を振り返った。

「ああ、大丈夫だよ……、でも、これ、凄いわ、本当に……」

と言った途端、直規は、路地の片隅に倒れ込むように駆け寄って壁に手をついて嘔吐した。喉元から込み上げてくるような苦しげな声を発しながら吐いている。その様子を見ていた心路も、ああ、俺も、と、ふらつきながら倒れ込むように道端で吐いた。

静かな夜のプシュカルの町に、二人が反吐を吐く音だけが響いている。智は、大丈夫?と聞くより他、何もしようがなかった。薄暗いオレンジ色の電灯の灯る中、反吐を吐く二人の姿がぼんやりと浮かび上がっている。インドの路地の持つ独特の臭気が、闇の中、悶え苦しむ二人を包み込んでいた。その光景は、現実のものでも非現実のものでもなく、目の前に張り付けられた平面的な写真のように、ただ、智の眼前に広がっていた。

ここはインドであるという疑いようのない事実、そしてそこで三人の日本人が日本語で会話しているという事実、更にドラッグで酩酊し、道端で嘔吐しているという事実、そのどれもが目の前で起きているまぎれもない事実に違いないのだが、智は、それらをどうしても現実のものとして捉えることができなかった。それは夢を見ているようでもあった。
どこか浮ついた現実だった。智は、そんな曖昧な心持ちで目の前で繰り広げられている現実を眺め続けた。

商談成立

直規は興奮してそう言うと、智はそれを制すように言った。

「俺も買うよ」

少し呆然として直規は智を見返した。

「智、マジかよ、無理しなくていいんだぜ、金なら明日返すから無理に買わなくたって今、貸しといてくれれば」
「いや、違うんだ、何となく興味が湧いて来たんだ。そしたらふとドルキャッシュ持ってること思い出してさ。だから気にしなくていいんだ」
「そうか、助かったよ、智、ありがとう」

表情を輝かせながら直規はそう言った。横で項垂れていた心路もほっとしたようにその様子を眺めた。

「幾ら払えばいいんだ?」

智はシバに尋ねた。

「そうだな、グラム八百だから三十ドルぐらいかな、まあ、負けて二十五ドルでいいよ」

智は、少し考えてからシバに向かって言った。

「違うだろう? 今、一ドル大体四十ルピーだよ。だから二十ドルだろ? せこい真似すんなよ」

智がそう言うと、シバは、極まり悪そうに微笑んで肩をすくめた。

「ああ、グラムあたり二十ドルでいいよ、どうだ、これで商談成立だろう? 君達みんなが一グラムずつでちょうどいいじゃないか。むしろ三グラムあって良かったぐらいだ。これも何かの巡り合わせだよ。神の思し召しだ。神は、最初から君達が三人で来るのを分かっていらっしゃったのだ。ラッキーだよ、君達は。本当に」

シバは、金を受け取ると金額を確かめ、満足そうに微笑んだ。タンクトップは、シバの指示で包みの上のブラウンシュガーの山を三等分すると別々に包み直し、一人ずつ手渡した。直規と心路は、それを大事そうに仕舞い込むとシバとタンクトップを横目でちらと見て立ち上がり、危なっかしい足取りでふらつきながら部屋の外へ出た。智は、冷静にその様子を眺めながら彼らに続いた。部屋を出るときシバが、気を付けてな、マイフレンド、と声をかけてきたが誰も返事をしなかった。

外へ出て、自分の手の中にブラウンシュガーの包まれた白い紙包みがしっかりと握られているのを改めて確認した。気が付くと、その手は少し汗ばんでいた。

ドルキャッシュ

「智、金持ってないか? 心路のせいで六百足んないんだよ。持ってたら貸してくれよ、きっと明日返すからさ、明日銀行に行けばすぐ返せるんだ」
「ごめん、直規、俺も三百ルピーぐらいしか持ってないんだ……」

智は、そう言いながら、自分の方へ向けられた直規の目に全身の毛が逆立つような思いがした。それは明らかにいつもの直規の目ではなかった。黒々と見開かれた瞳には、何かに取り憑かれたような輝きがあった。それはブラウンシュガーの作用によるものなのか、またはそれへの執着によるものなのかははっきりと分からなかったが、その瞳は、直規の欲求の烈しさを十全と物語っていた。

「そうか……、なら、仕方ないよな……」

直規は、独り言のように少し震えながらそう呟くと、シバに向かって言った。

「シバ、何とか二グラムで二千百で駄目か? 金が足りないんだよ」

それを聞いたシバは、顔をしかめながらこう言った。

「今さら何を言うんだ? 三グラム二千四百で話はついたじゃないか。それが限度だよ。もしどうしてもというのなら、最初の値段のグラムあたり千五百ということになる。それ以外は無理だね。それで駄目ならしょうがない、この話は無かったことにしよう。買い手はまだ他にもいるからな。君達だけじゃないんだ」
「ちょっと待ってくれよ、シバ、頼むよ、何とか安くしてくれ、俺達、今、金が無いんだよ……。あっ、そうだ! 分かった、明日金持ってくるからさ、それでどうだ? 明日になれば金ができるんだ」

直規は、シバに頼み込むようにそう言った。

「いいや、駄目だ。第一、君達が戻って来る保証などどこにも無い。それにこんなものをいつまでも手元に置いておくのはリスクが大きすぎるからね。今君達が買わないんだったら私は他に持って行く」

その言葉を聞いた直規は、泣き出さんばかりの媚びた表情でシバを見上げた。シバは静かに光る切れ長の目で直規のその様子を見下ろした。その視線の中には、どこか蔑んだ、嘲りの感情が込められているようだった。

ずっと彼らのやり取りを横から眺めていた智は、ピリピリとした緊張感を味わっていた。直規と心路の二人は、一体どんな感覚に溺れているのだろう。直規が、シバにああも強く頼み込む程のブラウンシュガーというドラッグは、一体どんなものなんだろう? 智の胸の中でそんな思いが止まらなくなっていた。だんだんと、コントロールできなくなり始めていた。恐ろしいような……。惹きつけられるような……。 

その時、電光のようにあるアイディアが智の脳裏に閃いた。智は、それを、ぽつりと呟くようにシバに言った。

「ドルキャッシュでもいいんだろ?」