放り投げた

智は、その内の一つを手に取った。それは、心路がデリーを出る時に分けてくれたチャイナホワイトだった。少し黄ばんだ白い粉が、紙の折り目に沿うように包まれている。智は、再びそれを包み直すと他のものと同じように窓から放り投げた。放り投げられた包みは、あっという間に流れゆく景色の中へと呑み込まれ、見えなくなった。そして最後に、袋の中の一番奥に残されたもう一方の紙包みを、智は指先を使って引っ張り出した。包みを開けるとそこには、薄茶色のさらさらした粉が、乾いた砂漠の砂の小山のようにこんもりと盛り上がっていた。直規と心路と智の三人で一緒に買いに行った、思い出のブラウンシュガーだ。まるで小さな冒険のように楽しかったあの日。月の光が銀色に揺れていた。

それは、懐かしい少年の日の思い出のようだった。この先またあんな日が訪れるだろうか?
これから先、一体幾つぐらいあの日のような思い出を作ることができるだろう?
それともそのような思い出は、時間とともに忘れ去られてしまうものなのだろうか。そして、アムリトサルのあの老婆のように、失われた時間の中で紅茶を啜って……、と、智は、そこまで思いを巡らせて、考えるのを止めた。そして勢い良く顔を上げると、ブラウンシュガーの包みを窓の外の風の中に投げ入れた。薄い茶色の砂漠の砂は、熱せられた砂の舞う暑い大気の中へと拡散していった。

目を開けていられないような、細かい砂を含んだ埃っぽい風も、智には何故だか心地良かった。柔らかな朝の輝きから一転して、大地を焼き尽くさんばかりに照らしつける真昼の焦熱に、智の全身は焦げ付かんばかりに焙られていたのだが、それすらも智は心地良かった。じりじりと肌を焼く熱線に、智は、やる気が漲ってくるのを感じた。

国境はもうすぐだった。前方には真っ直ぐな道が伸びている。智は、目を細めて道の向こうを眺めた ―――                   

—– 終 —–

生き延びて

国境までの乗り合いバスを拾いに行く途中、ゲストハウスの中庭では相変わらずイギリス人の老婆が庭を眺めながら紅茶を啜っていた。目の前を智が横切ろうと、まるで無関心だった。一体あと何年、彼女はああやって紅茶を飲み続けるのだろう? ひょっとしたら永遠にあのままなのかも知れない。彼女やそれに関わる周りの物質は、彼女とともに時間の経過を無視しながら永久に存在し続けていくように思えた。彼女達は、移ろいゆく周りの世界から完全に孤立しているようだった。

「ゴー・パキスタン、ゴー・パキスタン」

乗り合いバスの運転手が、窓から身を乗り出しながら智に向かって声をかけた。智は、イエス、イエス、と言いながら、完全に停まり切っていないバスの乗降口に慌てて飛び乗った。バックパックの重みで仰け反りそうになっている智を、何人かの乗客が手を差し出して引っ張り上げてくれた。智は、サンキュー、と礼を言いながら、満員の車内に何とか座席を見つけて腰を下ろした。さすがに国境行きのバスだけあって、乗客はパキスタン人が多いようだ。人目でそれと分かる出で立ちの人が何人か見受けられる。国境特有の風景だ。国と国との間の景色は、だんだんと混ざり合いながら、まるでグラデーションのように徐々にその色彩を変えていく。

見たことのない風景。聞き慣れない言葉。食べたことのない食べ物。手触りの違うお札や硬貨……。それら全部が、人間が人間として生活していくために生み出してきた物達だ。ちっぽけな人間が、厳しい自然環境の中で生き抜いていくために生み出した様々な物達。そしてそんな生活の中から発生した様々な文化、習慣。智は、それら全ての物に対してたまらない程の愛情を感じた。非力な人間が、何とかしてこの強大な世界に生き延びていこうとする、健気でたくましい精神。美しいたましい。智は、それこそがこの世の中で一番美しいものなのだ、と、今はっきりそう思った。

智は、国境行きのバスに乗りながら、ふいに、バックパックの底に隠しておいた、チャラスやLSDの入った布製の小袋を、詰め込まれたたくさんの荷物を掻き分けながら取り出した。そして周りの乗客の目を気にしながら、一つずつ中のものを取り出すと、次々と窓の外へ放り投げていった。シート状のLSD、いくつかのエクスタシーの錠剤、そしてマニカランで岳志と買った棒状になったチャラス、ワン・トラ分、そして安岡に分けて半分になったマナリーのフレッシュクリーム、全て投げ捨てた。残されたのは袋の奥の方の二包の紙包みのみだった。

癒して

安岡は、うろたえながら再び深々と頭を下げた。智は、いいよ、いいよ、とそれを制すると、思い出したように安岡に尋ねた。

「あっ、そうだ。安岡君、結局この後、どこ行くか決めたの?」 

安岡は、いえ、まだっすけど……、と口籠った。

「もし昨日言ってたマニカランへ行くんだったら、町の入り口に、マニカラン・コーヒーショップっていう店があるから寄ってみてよ。アナンとプレマっていうインド人夫婦がやってる店で、岳志さんって日本人がいると思うから尋ねてみるといいよ。ガンジャやチャラスのことなら何でも教えてくれるよ。いい人だからさ。会ってみるといい。さっきあげたチラムのことも良く知ってるし。俺から貰ったんだって分かれば、すぐに仲良くなれると思うよ。あと、ココナッツ作ってくれたクレイジーなババもいるから。インドで最初にこれだけディープな所へ行っておけば、後はどんな街へ行ったってへっちゃらだからさ。
行ってみるのもいいかもよ」
「智さんの知り合いがいるんっすかあ……。マナリーから近いんっすよね。じゃあ、行ってみようかな……」

智は、安岡の言葉に頷きながら、岳志やマニカラン・コーヒーショップのみんなのことを思い返した。しかしもうそれも、今となっては随分昔のことのように感じられる。ヒマーチャルプラデシュにコーヒーショップを広げる岳志の計画は、果たしてうまく行っているのだろうか?

「それと、もしデリーとかバラナシへ行くようだったら、ひょっとして谷部さんか建さんって人がいるかも知れないから、会ったらよろしく言っておいて。智はパキスタンへ行きましたよ、ってね。谷部さんは、さっき言ってた、そのチラムをくれた人で、あと、建さんは、そのチラムを凄く欲しがってた人だから、狙われないように気をつけて」
笑いながら智はそう言った。

「谷部さんと建さんっすね。分かりました。デリーもバラナシも多分行くと思うんで、もし出会ったらそうお伝えしておきます」
「バラナシはね、安岡くん、行った方がいいと思うよ。その建さんって人が、前、俺にバラナシの話をしてくれたんだけど、その人も恋人を亡くしててさ。色々あってバラナシに辿り着いたんだけど、ガンガーがその人への自分の思いを随分癒してくれたって言ってた。
それって何となく分かる気がするんだよね。あの街は、色々考えさせられる街なんだ。特に、死ってことについて。でも同時に、たくさんの魂を鎮めてくれる場所でもあると思うんだよ。様々なものを流していくガンガーの濁流を眺めていると、忘れかけてたたくさんの懐かしい思い出が、まるでその河の流れに映されてでもいるかのように心の中に甦って来るんだ。俺もいつかもう一度、ガートに腰かけてゆっくりとガンガーを眺められたらなあ、って思う。今回はもう無理だから、また今度、いつの日か、ね」
安岡は、頷きながら真剣な表情で智の話を聞いていた。話終えると智は、パンパンに荷物の詰まったバックパックを重たそうに背負い上げ、ジーンズについた砂や埃を軽く払った。

「いよいよっすね」
安岡がそう言った。

「うん。いよいよだ。元気でね、安岡君。いつの日かまた会おう。素敵なサッカーの先生になってね。応援してる」
智がそう言い終わるか終わらないかという内に、安岡は、目に涙をいっぱい溜めながら強く智の体を抱きしめた。    
「分かりました。がんばるっす、きっと、いい先生になってみせるっす」
安岡の声は涙や鼻水でくぐもっている。そんな安岡を見ていると、智の目にも自然と涙が溢れてくる。

「気をつけて、智さん! これから先長い旅、本当にお気をつけて!」
いよいよインドを離れるのだな、と、智は思った。そして別れというのは何度経験してみてもやっぱり辛いものだった。しっかりと安岡の体を抱きしめながら、智はしみじみとそう感じた。

かなり入念

「やっぱ、行くんっすか?」

翌日の朝、荷造りをしている智に安岡が声をかけた。

「ああ。今日、国境を越える」

ベッドの上に散らばった衣類を片づけている智を、安岡は、少し寂しそうな表情で眺めていた。

「でも、本当、イミグレ―ションでは気をつけて下さいよ。自分、かなり入念にバックパックを探られましたんで」
「そうだね……。見つかったらバクシーシじゃ済まないだろうからね。ちゃんと隠しておかないと……」
「自分、心配っすよ。智さんが捕まりゃしないかって。大丈夫なんすか? 本当に」

安岡は、心配そうに智の顔を眺めている。智は、バックパックの中に順番に持ち物を詰め込みながら、安岡の話を聞いていた。

「大丈夫だって。上手くやってみせるよ。これまでだって、俺、ガンジャやチャラス持ちながらいくつも国境越えて来たんだから。きっとうまく行くよ。犬さえいなければ大丈夫」

安岡は、はあ、そんなもんなんっすか、と溜め息をつくようにぼそりとそう言った。智は、パッキングの終わったバックパックを改めて点検していると、思い出したように、あっ、と声を上げた。そして、昨晩使ったままテーブルの上に置いてあったチラムを手に取って安岡に言った。

「これさ、安岡君にあげるよ」
智は、安岡にチラムを手渡した。

「え!? マジっすか? これ、智さんの大切なものなんっすよね。確か、誰かから貰ったって……」
狼狽しながら安岡は智にそう言った。

「ああ。デリーで会った谷部さんって人が別れ際に俺にくれたんだ。でも、その人もそれを知り合いのフランス人から貰ってて、更にそのフランス人も他の誰かから貰ってるんだよ。そうやって代々受け継がれて来たものだから、これでいいのさ。安岡君も、またいつか誰かにそれを譲ればいいし。もちろん、ずっと持ってたっていいしね。それは自由だ。
俺は、何となく安岡君にあげたいなと思ったからそうする訳で。だからもし邪魔にならなかったら貰ってくれないかな?」
安岡は、まじまじと手の中のチラムを眺めている。

「もちろん、頂けるものなら是非とも頂きたいですけど……。本当にいいんっすか?」
智は、もちろん、と言って安岡に微笑みかけた。

「分かりました。大切にします。そしていつかまた、自分もこれを他の誰かに手渡したいと思います」
そう言うと、安岡は、智に向かって深々と頭を下げた。智は、微笑みながら、じゃあ、これも持ってきなよ、と言いながら、マナリーのクリームを半分にちぎってポンッと安岡の方へ放った。安岡は慌ててそれを受け止めた。

「そんな、こんなものまで……。これも凄くいいチャラスなんっすよね……」
「ああ、まあ、ね。そのチラムとチャラスを、見る人が見たら、きっとかなり驚くと思うよ」

欠けたもの

「一ノ瀬さん、あの、自分、もう一つ思うことがあるんすけど……」
「えっ、何?」
智がそう聞き返すと、安岡はためらいがちにこう答えた。

「それは、欠けたものはもう戻らない、ってことなんすよ……」
安岡のその言葉を聞いたとき、智は少し胸騒ぎがするのを感じた。

「欠けたものは、戻らない……?」   
「ええ。例えば、自分や智さんは大切な友達を失った訳じゃないですか。それっていうのは、心のどこかが欠けている状態だと思うんっすよ。胸の中にぽっかりと穴が開いているというか……。そういう人達って自分も含めてみんななんすけど、無意識の内にその穴を埋めようとしてると思うんっすよね」  
智は、自分でも気が付かない内に身を乗り出しながらその話を聞いていた。

「でも自分は、いくらそれを埋めようとしたってその欠けたものって言うのは、決して埋まらないと思うんっす。多分、死ぬまでそのままなんじゃないかと……」

智は、何故だか良く分からないが、安岡のその言葉に今まで味わったことのないような感動を受けた。それは、智の知らない、静かで穏やかな衝撃だった。その言葉は、まさに智の心の核を突いたのだ。突かれたそのものは、ずっと智の胸の中で言葉に変わることなく沈澱し続けていた鉛のような思いだった。それを安岡は、容易く言葉に変換し、智の深い心の底から明るい表の世界へと引っ張りだしてくれたのだ。

――― そうだ、もう戻らないのだ。欠けてしまったものは、永遠に戻りはしないのだ ―――   
欠落した智の心は、安岡の言うように、何とかしてその穴を埋めようと必死にあがき続けてきた。しかし、それは決して元の形には戻らない。それを智は、自分に力が足りないせいだとして無意識の内に自分で自分を責め続けてきたのだ。そのことを、今、安岡の言葉によって智は強烈に理解した。そして「戻らない」という一見、救いのないようなその一言が、他の何万語にも勝る救いの言葉として、智の胸に染み渡った。

――― 一度欠けたものは、もう、元の形に戻ることはない……。間違っていない、俺は間違ってはいない。戻らなくたっていいのだ。必死に元に戻そうとしてもどうしても戻らずに、俺は焦ってばかりいたが、焦る必要などないのだ。俺は間違ってはいない。元に戻す必要など無いんだ。その欠落を、欠落として、受け入れることこそが重要なんだ ―――   

放心したように智は安岡の顔を見つめていた。安岡は、智の機嫌を損ねてしまったのだろうか、と、心配そうに智を見返した。しかし智は、安岡のそんな思いとは裏腹に、安岡の方に近づいていって両手でそっと彼の手を握りしめた。

「ありがとう、安岡君。その言葉こそ俺がずっと探し続けていた言葉なのかも知れない。
何だか胸のつかえがスッと取れたような気がするよ。安岡君のおかげだ。ありがとう」智にそう言われた安岡は、ホッとしたように表情が和らいだ。智は、インドを出る直前に安岡のような男に出会えたことをとても嬉しく思った。そして明日、インドを出発しようと思った。何となく今晩の安岡の話が、インドを出発しようとしている自分へのはなむけのように感じられたからだ。

インド最後のこの夜に、智達は、チラムを使ってチャラスを回した。智は、谷部に貰ったこのチラムをどうしても安岡に渡したくて、最後に一緒にキメたかったのだ。そして二人とも、かなりの量をチラムで吸ってそのまま眠ってしまった。

養成所

安岡は、少し照れくさそうに笑いながら、もう一度チャラスの煙を一口大きく吸い込んだ。そして目を閉じ、深呼吸するようにゆっくりと息を吐き出した。

「けど、それが良かったんすかね。それから自分の中で何かが変わったみたいで、もうそれまでのようにあいつのことで思い悩むこともそんなに無くなりました。それでしばらくそうやってサッカーやってる内に、サッカーの教員になろうと思いついたんすよ。サッカークラブで子供達にサッカーの楽しさを教えられたらな、なんて思い始めたんっす。何か、そうすることが死んでいった友達に対するはなむけになるような気がして……。それで本格的にやるために、ヨーロッパに選手の育て方を学びに行こうと思って出たのが今回の旅なんっすよ。それが何故かこんな所にいるんっすけどね。始めはスペインやイギリスやオランダなんかの有名なクラブチームの養成所を見学しながら回ってたんっすけど、その途中でアジアからヨーロッパまで渡って来た日本人の旅人に偶然出会って、旅に対して全く無知だった自分は、そんなことが可能なのかと思ってびっくりしてしまったんすよ。それで詳しく話を聞いてる内に、知らない間に自分も東へ向かう旅を始めてしまい、今に至ってます。だから、インドのこともまるっきり知らないままここまで来てしまったんすけど、このまま東へ向かって日本へ帰るのもいいかな、と思いまして。何だかいつの間にか旅の主旨がずれてしまってますけど、まあ、これもいい経験かなって思ってます。子供達に話して聞かせることもできますしね。自分、今、生きてて良かったって凄く思ってるんすよ。人生ってこんなに楽しいものなんだなって。あいつが死んだ直後、真剣に何度も自殺を考えました。毎日毎日、来る日も来る日も、死ぬことばかり考えてました。でも今、あのとき死ななくて本当に良かったなって思ってるんっす。それは、自分が本当にやりたいことというかやるべきことが、はっきりと分かったからだと思うんっすよ。俺にとって、それは、子供達にサッカーを教えることだったんっす。あいつとプレーしている時に感じていたあの素晴らしい感覚を、少しでも子供達に伝えることができたらなあって思うんっすよ。そうすれば、死んだあいつもきっと喜んでくれるんじゃないかって……」

そう話す安岡の瞳には涙が光っていた。智は、そのことには気が付かないふりをしながら、自分の目にも溢れつつある熱いものを安岡に気付かれないように懸命に隠した。

「すみません、一ノ瀬さん。チャラスがキマッているせいか、聞かれてもいないことをつい、べらべらと喋り過ぎてしまって……。でも、一ノ瀬さんの一希さんへの思いを聞いていたら、何だか話さずにはいられなかったんすよ。すみません、つまらない話をしてしまいまして……。あ、それと、このチャラスも、こんなに吸ってしまいました。すみません……」そう言いながら安岡は、もう殆どフィルターだけになっているジョイントを申し訳なさそうに智に手渡した。

「何言ってるんだよ、安岡君。謝ることないよ。俺、何となく分かったような気がする。
多分、一希のことはすぐには解決できないだろうけど、そのことをどう捉えれば良いかということは、安岡くんの話のおかげで良く分かった気がする」

智は、フィルターだけになったジョイントを安岡から受け取りながらそう言った。智がそう言うと、安岡は、そうすっか、それなら良かったっす、と言って照れながら頭を掻いた。

不公平

「その後は随分と悩みました。あんなに好きだったサッカーもプレイはおろか、テレビでの試合も見なくなりました。ボールを見るのも嫌になった程です。その後、何年もボールに触れることはありませんでしたね。でも、幸い自分は周りの人間に恵まれていたんっす。みんな辛抱強く自分のことを見守ってくれて……。だからそこまで自暴自棄になることもなく、何とか立ち直ることができたんっすよ。いや、実際はかなり自暴自棄になってたんっすけど、そこまで道を踏み外さなかったのも、本当、友達や家族のおかげっす。やけくそになってた自分のどんなわがままにも我慢してくれて……。本当に感謝してるんっすよ。ありがたいと思ってます。でも……。あの事故が十六の時だったから、もう、十年も経ってるんっすよね……、それだけ時間が経っていても、やっぱり、あいつの死が完全に吹っ切れてる訳ではないんっすよ。今でも、夢でうなされたりすることがあるんっす。あいつが夢に出て来てね、何でお前じゃなかったんだ、何で俺が死ななきゃならなかったんだ、ってね、何度も言うんっすよ。夢の中で。俺はひたすら謝り続けるんっす。ごめんな、ごめんな、堪忍してくれ、って。そして大抵、泣きながら目を覚ますんっす」

智は、そんな安岡の気持ちが何となく分かるような気がした。安岡が、死んだ友達に抱いている罪悪感のようなものは、智が一希に対して感じている気持ちに似ていた。死んだ者と生き延びた者。恐らく両者を隔てたその差など、ほんの些細なことに過ぎないのだろう。ある時、何かをやったかやらなかったか、というぐらいのことに違いない。生き延びてしまった安岡と智は、そのことに対して何か不公平なものを感じずにはいられないのだ。生き延びてしまったということを、フェアなことだとは思えなかった。

「でも、最近ひとつ変わったのが、自分、またサッカー始めたんすよ。ボールを蹴り始めたんっす。地元のかつての仲間達が作った草サッカーチームなんすけどね。そいつらに誘われて自分も入れてもらったんすよ。けど、最初の内はやっぱり戸惑いました。シューズを履くのにも抵抗があって……。でも、やっぱりそのとき助けてくれたのが仲間達でした。みんな、無視するんっすよね。そんな風に戸惑ってる俺を。変に気を遣ったりすることもなく……。ボールが自分の所に転がってきたら、取ってくれよ、って言うぐらいでね。そしたら知らない間にみんなに加わってたんすよ。それで必死になってボールを追いかけてたら、何だか今まで自分に重くのしかかっていた様々な思いが、どんどん軽くなっていくような気がして、凄く清々しかったんっす。ああ、ボールを蹴ることはこんなにも楽しいことだったんだな、って、昔のことを思い出してました。あいつと一緒に蹴ってた時のことを。そしたら今まで押し殺してたあいつとの思い出が、どんどんどんどん胸の奥から溢れて来たんすね。俺は、思わずその場にうずくまって泣いてしまいましたよ。涙がどんどん溢れて止まらなかったっす。気が付いたら、はばかりもなく、大きな声で泣き叫んでました」

智は、ああ、もちろん、と言って、灰皿の上に途中で消したまま置いてあったジョイントを手に取ると、再び火をつけて安岡に手渡した。安岡は、ありがとうっす、と言ってそれを受け取った。そしてぎこちない様子で大きな吸気音をたてながら深々と煙を吸い込むと、改めて智の方に向き直ってゆっくりと話し始めた。

「自分、高校のときサッカーやってたんっすよ。結構強い学校で、県の大会でも常に上位に喰い込んでいたようなチームでした」

安岡は、もう一度ジョイントを吸った。安岡の厚い胸板ではち切れんばかりの小さめのTシャツは、汗でべっとりと濡れている。狭い部屋は、二人の汗の匂いと湿気と大麻の煙とで充満していた。粘ついた、とても不快な夜だった。

「だから練習も毎日結構ハードだったんっすけど、自分は割と楽しんでやってました。それも小学校からずっと一緒にサッカーやって来た友達がいたからなんっすよ。自分とそいつはチームの中でも中心的なコンビだったんっす。そいつとは普段から仲良かったんすけど、プレーしてる時は更に特別息が合ってて、二人でボール蹴ってる時は、疲れた、とか、もう駄目だ、なんて思ったことは一度もなかったっすね。何せ楽しくって。お互いがお互いの動きを分かってて、何も合図なんてしなくてもスッと相手の所にボールが出せるんっすよ。そういうのがスパッと通った時が凄く気持ちいいんっす。ああ、サッカーやってて良かったなって思える瞬間っす。そしてそう感じる度に、ああ、こいつとずっとサッカーやっていきたいな、ってしみじみ思ってました」

安岡は、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを手に取ると、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。そして、Tシャツの裾で濡れた口を拭うと、再び話し始めた。

「それが、ある日の練習中のことでした。その日は暑い夏の日で、確か台風が来る前日だったと思います。風が無くってすっごく蒸し蒸しした日だったんっすけど、雨は降ってませんでした。ただ、雷が凄くって、稲光りを光らせながらゴロゴロゴロゴロ鳴り響いてたんっすよ。自分達はちょっとビビってたんすけど、まあ、高校生でしたしね。雷ぐらいで練習を止めたりはしません。そのままいつものように練習を続けていました。自分もいつものように相棒と一緒にボールを蹴ってたんっすよ。そして、本当に突然のことでした。あの光景は今でも忘れられません。忘れたくても忘れられません。あいつが、俺の名前を呼んで、声をかけながらボールを蹴ったその瞬間のことでした。雷が落ちたんっす……」「えっ、雷が落ちたって、ひょっとして、その友達に……?」

安岡は無言で頷いた。

「そうなんっすよ。直撃でした。後で聞いた話によると、スパイクのポイントって分かります? 靴の裏に飛び出してる爪みたいなやつのことなんっすけど、金属製のそれに落ちたらしいんっす。まあ、どこに落ちたにせよ、目の前で自分の親友が死んだんっすよ。しかも、大好きだったサッカーやってる途中に。もう、ショックなんてもんじゃなかったっすよ。自分は、その日限りでサッカーを辞めてしまいました……」 

少し寂しそうな表情をして安岡は俯いた。智は、何て声をかけていいのか分からずに、しばらくの間安岡の顔を眺めながらじっと沈黙していた。安岡は、気を取り直したように顔を上げると再び口を開いた。

溢れだして

「一ノ瀬さん、一ノ瀬さん! 一体どうしたんっすか? 急に電池が切れたみてぇに固まっちまって。早くやりましょうよ、その、チャラスってやつを!」

沈黙しながらぐるぐる考えを巡らしていた智は、安岡の野太い声で我に返った。

「ああ、ごめん、ごめん。ちょっと、ぼんやりしてた……」

智は、そう言うと巻きかけのジョイントを丁寧に仕上げていった。しかし、死体となった一希の残像は、その後も智の頭の中から消えることはなかった。

安岡は、チャラスにしたたか酔っていた。ベッドの上にぐったりと倒れ込み、両目は、殆ど閉じてしまいそうなぐらいぼんやりとしていた。さっきまでの威勢の良さはまるでなかった。

「一ノ瀬さん、これ、本っ当、凄いっすね……」

安岡は、仰向けに寝転がり、腹の上で両手を組んで天井で回るファンを眺めながら、まるで力の抜けた調子でそう言った。

マリファナを初めて吸う者の中には、その効き目に対する期待が大き過ぎるためか、効いているのを実感できない者がたまにいる。智もその口だった。三回目か四回目ぐらいでようやく、ああ、これがそうなのか、と実感できるようになった。それは、最初の内が効いていなかった訳では決してなく、効いているのに気が付かなかっただけなのだ。マリファナの作用は、LSDなどとは違ってそんなに劇的なものではない。場合によってはむしろ、酒よりも穏やかなものである。それなので、吸った途端にすぐ変化を自覚した安岡は、ひょっとしたらマリファナに関してかなり敏感な感性を持っているのかも知れない。もしくは、智の使ったマナリーのクリームが相当強烈に作用したのか、そのどちらかだろう。しかし、いずれにせよ安岡は、初めてのマリファナ・トリップに取り乱したりすることもなく、上手くその波に乗れているようだった。

「ああ、安岡君。いい感じにキマッてるみたいだね」
「キマッてる? ああ、このことを、キマッてるって言うんすか……。成る程、それならばかなりキマッてますよ。何だか頭がボーッとして、目の前がぐらぐら揺れてるみたいっす。しかし、どうしたんっすか? 一ノ瀬さん。何だかしょんぼりしてるみたいっすけど……」

安岡は、寝ころんだ姿勢のまま智の方に顔を向けてそう尋ねた。智は、普通にしていたつもりなのに、簡単に安岡に心の変化を読み取られて少し狼狽した。一希のことを智はまだ考えていたのだ。

「いや、何でもないよ。ただ、ちょっと疲れてるだけで……」

ごまかそうとして智はそう言ったが、安岡はそう簡単には引き下がらなかった。

「何っすか、一ノ瀬さん。水臭い。話してみて下さいよ。自分で良ければ相談に乗りますんで」

安岡の顔が蝋燭の炎で朱く照らし出されている。長く伸びた影が、灰色の壁に揺れている。その様子を眺めながら、さっき会ったばかりの男に一希のことを軽々しく話してしまってもいいものだろうか、と智は考えた。それに、例え話したとしても智の中で何かが解決するようにはとても思えない。しかし、人懐っこい安岡の表情は、何故か智の強張りつつあった心をリラックスさせていた。頓狂で屈託のない安岡のその表情を眺めていると、智は、ひょっとしてこの男なら何らかのヒントを自分に与えてくれるのではないか、と、直感的にそう思うのだった。気が付くと智の口は自然に言葉を発していた。

「あの、さ……。実は、さっき言ってたマナリーで……、人が、死んだんだ」
「えええっ!」

安岡は、突然飛び上がってベッドの上に正座した。あまりの安岡の驚きように、智は、今自分が話してしまったことを即座に後悔した。

「いや、安岡君、もう、いいんだ。忘れてくれよ。ごめん、変な話して……」
「そんな訳にはいきませんよ。一体、何があったっていうんです? 詳しく教えてもらえませんか?」

安岡は、息を整えて智にそう尋ねた。興奮を必死に抑えているようだ。もう逃れられそうにもないので、智は諦めて全てを話すことにした。

智が話す、一希が死に至るまでの一部始終を、意外にも安岡はとても落ち着きながら聞いていた。そして智は、自分の中で処理し切れない一希の死に対する思いも、隠さず安岡に話し切ってしまった。ちょっとチャラスを吸い過ぎていたせいもあるのかも知れない。何故だかそれらの言葉は、尽きることなく智の胸の奥から次から次へと溢れだして来るのだった。安岡は、うん、うん、と頷きながら黙って智の話を聞いていた。そしてしばらくそのままの姿勢で考え事でもするように目を閉じると、突然顔を上げて真っ直ぐに智を見返した。

「実は、一ノ瀬さん。自分も目の前で友達を亡くしたことがあるんっすよ」

智は、安岡のその言葉に声を詰まらせた。

「えっ……」
「しかも一番の親友だったんっす……。すいません、一ノ瀬さん。もう一服吸わせてもらってもいいっすか?」

新鮮な感慨

夕食を終えて宿の従業員も眠りに着いた頃、安岡と智は、二人で蝋燭の灯った智の部屋にいた。智は、蝋燭の明かりで手元を照らしながら丁寧にジョイントを巻いている。使っているチャラスはマナリーのクリームだ。いきなり世界最高のチャラスを吸えるんだから、安岡は幸せな奴だな、と心の中で智は思った。安岡は、智を質問攻めにしながら、喰い入るように智の一挙手一投足を眺めている。

「へええ。そうやって巻くんすか。成る程なあ。ところでその、木のお椀みたいなのは何なんっすか? もともとは灰皿っすか?」

安岡は、智のココナッツを指差しながらそう言った。

「これのこと? これはね、マナリーの近くのマニカランっていう村にいた、サドゥーに作ってもらったココナッツなんだよ。こうやってジョイントを作るときに使う皿なんだ」「へっええ。そんなもんまであるんっすかあ。それにサドゥーっていうと、インドの修行僧みたいな人のことっすよね? 一ノ瀬さん、そんな人とも知り合いなんっすかあ。はああ、すっげぇなあ……」

安岡は、至極感心した様子で腕組みしながら何度も頷いた。

「ちょっと待ってよ。別に全然凄くなんかないよ、そんなこと。サドゥーなんてインドにはその辺にいくらでもいるんだから。良かったら行ってご覧よ。マナリーならこっからダラムサラを経由してすぐ行けるからさ。安岡君、インドはどこ行くかもう決めてるの?」「いえ、まだ全然っす。自分、インドのこと全く知らないんっすよ。だから、決めたくても決められなくって……。一ノ瀬さんの言う、マナリーってとこに行ってみようかな……」「ああ、それはいいと思うよ。俺の知ってる人達も、多分まだいると思うし。凄いチャラスがいっぱいあるぜ」

そう言いながら智は、自分にとっては過去となっているマナリーの町へこれから初めて訪れようとしている安岡に、何か新鮮な感慨を抱いた。熱狂的だったあの日々。死んでしまった一希……。それらの記憶は、一希の死でさえ、智の中では既に遠い過去のものとなりつつあった。しかしそれは、智の記憶から消えてしまった訳では決してない。むしろ、時間という概念を飛び越え、普遍的な観念として恒久的に智の心に刻み込まれたのだ。死に抗いながら死んでいったあの一希の死に顔を、智は、どうしたって忘れることはできなかった。

一希の死は、一体智に何をもたらしたのか。死を拒みながら死んでいった一希。そんな一希を目の当たりにしながら、何にもできなかった自分。のうのうと生き延び、呑気に旅など続けている自分。ひょっとしたら俺は卑怯者なのではないだろうか? いくら一希の死が、言わば自ら引き起こしたものとはいえ、一希が死んでいく様子を目の前で目の当たりにした智の気持ちは、それだけでは済まされきれないものがあった。目の前で死んでいった一希を差し置いて、自分だけ生を楽しむ権利など持ち合わせていないのではないだろうか。何故一希は死んで、自分は生きているのか。同じようにインドにいて、同じような生活を送っていただけなのに、何故一希は刺され、自分は生き延びているのか。何故、刺されたのが自分ではなかったのか。果たして自分にこのまま生きていく資格などあるのだろうか……。