五か国語を話す少女

サイゴンのマーケットに五か国語を話す少女がいた。
道ゆく観光客に色んな言葉で話しかけ、お店に案内し、マージンをもらっているのだ。
まだ10才ぐらいの女の子だよ。
フランス人のおばちゃんたちにフランス語で声をかけていて、ぼくを見つけると、すぐさまぼくの方に寄ってきて日本語で声をかけてきたからびっくりした。
しかもけっこう流暢な日本語で、普通にぼくと会話ができる。
フランス人のおばちゃんたちとも普通に会話してたみたいだから、フランス語も相当話せるみたいだ。

「お兄さん、おみやげあるよ、買ってく? 何探してるの?」

10才のくせに、お兄さん、なんて言われるとホステスさんか何かみたいでちょっとおかしいんだが、あんまりその子の日本語が年令に似合わずにうまいものだから釣られて話し込んでしまった。
そのときぼくは刺しゅうの入ったベトナムの素敵なTシャツを探していたんだ。
だからそれに適したお店を彼女に聞いてみた。
そういったお店はマーケットの中にたくさんあるので、どこから手をつけていいのか分からないのだ。
彼女は、こっちこっち、とぼくのシャツの裾を引っ張ってお店の前まで連れていくと、そこのおばちゃんとベトナム語で何か会話をし、そして差し出された品物をおばちゃんから受け取ってぼくに見せてきた。

「これは、どう? こういうのでしょ?」

見るとそれは緑のTシャツに金色の糸ででかでかと、ベトナム、と書いてあり、ちょっと派手だったし、何よりも機械縫いの刺しゅうだったため、

「違うんだ、もっとこう地味な感じで、そう、手縫いのものが欲しいんだ、手縫い、分かる? ハンド・ソーイング」

と聞き返した。
ベトナムでは実は、手縫いの素敵なTシャツがとても安く売られている。
ぼくは以前まだ旅に出る前友達に、その手縫いのTシャツを見せられ、さんざん自慢され、そしてそれをとてもうらやましく思っていたため、いつかベトナムに行ったら死ぬ程買い込んでやろう、と何年もの間ひそかに心に決めていたのだった。
だから、手縫いのものでないとだめだったのだ。

彼女は少し考えると、よし、分かった、と言ってまたぼくの服を引っ張って、スタスタと駆け始めた。
どこから来たのか、いつの間にか彼女の弟とおぼしき少年も一緒になって駆けている。
そして彼女たちが連れていってくれたお店には、成る程ぼくの追い求めていたTシャツがたくさん売られていた。
ぼくが死ぬ程買い込んだのは言うまでもない。

その後彼女たちは市場の中を色々案内してくれた。
実にたくさんの色んな種類のお店がそこにはあって、一日いても飽きないぐらい。
甘味どころもあって、ベトナムのお菓子がとてもおいしそうに売られていたので、お礼におごってあげるから食べていこうよ、といったら彼女はその申し出を断って、自分でお金を払った。
日本のあんみつみたいなさっぱりと甘く冷たいそのお菓子を食べながら、ぼくは彼女に聞いてみた。

「一体何か国語ぐらい喋れるの?」

彼女はゆびおり数え始めて、五か国語ぐらいかな、と言った。
日本語と、フランス語と、英語と、ドイツ語と、あとベトナム語。スペイン語をいま勉強中という。
あながち嘘ではないみたい。さっきフランス語をぺらぺら喋っていたのは見ているし。
もし本当だとしたら、すごいよな。
ぼくは感心してしまったのだ。
こんな小さな子でもこんなに話せるようになるんだ。
自分は英語すらままならないのに。

きっと言葉を話せたら便利だからだろうな。
お金が稼ぎやすいから。
だから必死で覚えるんだ。
こんな小さなベトナムの女の子が日本語をぺらぺら喋っている。
それだけでも十分驚きだ。
きっと隣にいる小さな弟も、姉さんを見習って、これから覚えていくんだろう。
人間やろうと思えば何だってできるものなんだな。
なんか妙なふうに人間の持つ底力のようなものに感心してしまった。

きっと高いお金払って英会話なんて行く必要なんてないんだ。
何かそういうのがすごくばからしく思えてきた。
あんな小さな子でもペラペラ話せるようになるんだから。
お金なんて使わなくたって、きっと英語ぐらいペラペラになれるんだ。
要はやる気だよな。
必要性というか。真剣さというか。
お金つぎ込んだってだめなものはだめだよね。
何か、何でもお金払って簡単に済まそうとしている自分がとても愚かに思えました。
いつから物事に真剣に取り組むという姿勢を忘れてしまったんだろう。
お金なんてなくたって、英語ぐらいきっと話せるようになるもんなんだ。
お金なんてちょっとあればいいんだよな。本当は。
そんなにたくさんいらないんだよな。きっと。
豊かさをはき違えて、もっと大切なことを忘れてしまっている。
そんなことに気付いてしまった、さとうさんでしたとさ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ある光景

恐ろしい光景を見たことがある。
ひょっとしたら、今この瞬間、人が死ぬかもしれない。
そういう場面に出くわした。
人の心とは不思議なもので、そういうギリギリの場面ではなるべく精神が混乱しないよう何らかの自衛作用が自動的に働くらしく、ぼくは目の前の出来事を自分とは関係のない客観的な出来事としてまるで異次元の世界のことのように冷静に見つめていた。
多分、どちらかが死んでもパニックなど起こさずにけっこう冷静に対処できていたように思う………

インドにはこの21世紀の近代的な世の中においてなお、恐るべき原始的な制度がいまだに現存しており、その制度は、インド社会に不可触賤民という人間以下の動物のような扱いの人達を多く産出している。
彼らは、近代インド独立の父、マハトマ・ガンジーによって、神の子、ハリジャン、などと呼ばれはしたものの、実状は名目だけで、今もなお、最下層のさらに下の、想像を絶するような悲惨な生活を強いられ続けている。
ひょっとしたら動物以下かもしれない。
人に飼われている犬の方がまだましだ。

そんな動物以下の人達を町中で見かけることは、インドではそれほど珍しいことではないのだが、そのときは違った。

インドの首都、デリーでのことだ。
ぶらぶらのんきに道を歩いていたら、人だかりができている。
それは車道にまではみだす程で、どうやら輪の中心で何かがおきているらしい。
みんな口々に何ごとかを言い合い、時にはその中心に向かって叫んだりしている。
はて、何だろう、と思ってなおものんきに歩いていたら、肌はまっ黒で、髪の毛は汚れて束になって固まっており、ぼろぼろの衣服を身にまとった、一目でそれとわかる男女が物凄い勢いで喧嘩をしていた。
その喧嘩の仕方というのが普通でなく、男も女も関係なく、髪の毛を引っ掴んだり、足を蹴飛ばしたり、時には男が女の顔面を思いっきり拳でぶん殴ったりしているのだ。
男に殴られた女はさすがに効いたらしくしばらく俯いて頬を押さえていたが、突然起き上がると近くに落ちていたコンクリートブロックを拾い上げ、男に向かって投げ付けた。
男は間一髪避けて頭部への直撃はかわしたものの、肩の辺りにまともにそれをくらった。
鈍い音をたてて男はそのまま倒れ込んだ。
男はしばらくの間そのまま動かなかったが、回復してムックリと起き上がるとその手中には刃物のようなものを光らせていた。
ギラギラと照りつける日光を白く跳ね返す、そのものは、それまで面白半分で見学していた人達をあっという間に沈黙させた。
張り詰めた空気が辺りを包む。

あっ、人が死ぬ、と、ぼくは思った。
でも、まわりの人達は誰一人としてとめようとしない。
ああ、これがハリジャンなのだ、と、ぼくの意識に奇妙な形でその言葉が叩き込まれた。
と、よくみると、女の足下に子供がしがみついて泣きじゃくっている。まだ、年端も行かぬ子供だ。
その子供が泣きながら、懸命にその女の足を叩いている。
脱げたサンダルを拾い上げ、それで叩いて投げ付けた。
必死に喧嘩をやめさせようとしているのだ。
追い払われても、追い払われてもひっついてしがみつく。
二人の間の子供なのだろうか。

地獄、だった。
その光景は。まさに。

するととうとうそれを見兼ねたひとりの割腹のいい男性が、お前らもういい加減にしろ、という風にその争いを止めに入った。
二人はまだ大声で言い争っていたが、そんな所にも階級の見えざる力が働いているのだろうか、逆らうことを知らない不可触賤民は割と素直にその仲裁を受け入れた。

事態が収束するにつれ、人だかりは散開していった。
しかしその子供はなおも泣きながら、女の足を叩き続けていた………

この世の地獄だった。

どうして人はああも残酷になれるのだろう。
あれが仮に、自分たちと同じような風采の人達だったなら、彼らはあんな風にニヤニヤ笑いながら見ていられただろうか。
あの様子は明らかにあの人達を自分たちとは異質の存在と認識しているように思えた。
そこまで人間、同じ人間を差別できるものなのだろうか。

たまたまぼくは、穏やかな社会で生まれ育った。
それは巧妙に隠蔽されているだけなのかもしれないが、少なくともあんな風に露骨に残酷な場面は見なくてすんできたといえる。
だからあんな光景を目の当たりにして、少なからず衝撃を受けたのだ。

どうして人間はこんなにも醜いのだろう。
どうしてすべての人を平等に愛すことができないのだろう。
何故に怒りや憎しみという感情を必要とするのだろう。
果たしてぼくやあなた達の中に、あの、周りでニヤニヤ笑いながら見ていた人達のような、冷酷で、悪魔のような人格が潜んでないと言い切れるだろうか。
人間は人間であるが故に、そういう醜悪さを生まれながらにして持っている。
それは事実だ。
私は持っていない、なんて眠たいことは言わせない。
ぼくが聞きたいのは、一体どうやったらその醜悪さを乗り越えられるかということだ。
誰か教えて欲しい。
この地獄から抜け出す方法を、誰かぼくに教えて欲しい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ダライ・ラマ

「首にかけてる赤いひも、それ、一体何だよ?」

「ああ、これか。これはダラムサラにダライ・ラマに会いに行ったとき、彼からもらったものなのだよ。それ以来、常に首にかけているのだよ」

そいつはオレに赤いひものことを、そう説明した。

ダライ・ラマとはチベット仏教における最高指導者であり、チベット亡命政権の国家元首でもある。
加えて、衆生救済のためあえて涅槃に入ることを拒否し、輪廻世界に留まり続ける観音菩薩の化身であると信じられている。

ダラムサラとはインドの北部にある、山奥の小さな村のことで、ダライ・ラマがチベットからインドに亡命し、亡命政権を樹立したところだ。
オレの友達は遥かそんなところまで行ってその、観音菩薩の化身と言われる人に出会って、赤いひもを手に入れてきたのだ。
まだアジア諸国に行ったことの無かったオレには、それはとんでもないことのように思えた。
自分の住んでいる世界とは全く別世界すぎて、無関係すぎて、想像もつかない。
まるで雲をつかむような、現実味の薄い話だった。
すごいなあ、と感心するより他にしようがなかった―――

本当に尊敬できる人というのはあまり出会ったことがない。
世に聖人と呼ばれる人というのも、物質文明の横行する以前の遥か昔ならいざ知らず、今のこの、金と物の欲望によって支配されている現代社会においては、皆無に等しいのではなかろうか。

オレは、その赤いひもの友達の話に少なからず影響を受けて、いつか自分も会えるものならダライ・ラマに出会って握手をしてもらい、その赤いひもを手に入れたい、と、そう思っていた。
物欲にかられたその動機が不純だったせいなのか何なのか、何年後かにとうとうダラムサラに辿り着いたとき、折しも彼は日本訪問中で、会うことはかなわなかった。
そのときは、その皮肉っぽい偶然に我が身の不幸を嘆いたりしたものだが、実を言うとそれより以前にオレはダライ・ラマに会っていたのだ。
しかし、会っていたといってもその友達のように個人的に一対一の形ではなく、もっと多くの人達に混じった講演の場で、であって、会ったというよりはむしろ、講演に参加してその姿を目にしただけのことなのだが。
だから赤いひもはもらっていない。

ブッダガヤ、という、ブッダが悟りを開いたとされる仏教の聖地の村にオレが訪れたときのこと。
ダライ・ラマの講演が開かれるという噂は薄々耳にしていた。
しかし、いざ辿り着いてみるとそれは一週間も先のことだった。
ブッダガヤというのは聖地というだけで他に何があるわけでもなく、しかも、インドの中でも一二を争うような貧しい地域に属しているため、物資も乏しく、食べ物も粗末で、本当にすることなんて何もなく、聖地巡りなんかも一日もあれば十分なのだが、友達の話に影響を受けていたオレは、どうしても彼の姿を見ておきたくて、耐えてそこで待つことにした。
今思い返してみても、その一週間をどうやって過ごしたのか全く覚えていない。何にも思い出せない。
それほど無為に過ごしていたのだろう。
他の町ならまだ誰がしか日本人などに出会って暇を潰せるものなのだが、そのときは、たった一人だったため、毎日をどうやって過ごしていたのかなんにも覚えていないのだ。
一週間もの間、なんにもない村で、一体一人で何をしていたのだろう?
よっぽど無駄に過ごしていたんだろうな。
今考えると一週間も一人で何もせずに過ごすだなんて、ちょっと不思議な気がする。
日本での生活と比較すると、やっぱりあり得ない話だ。

ともかく、一週間が過ぎていよいよ講演の日が訪れた。
村もチベット色一色に染まり、多くのチベタンの姿が見受けられる。
何か月か前、チベットで過ごしてきた日々のことが懐かしく思い出され、胸がざわめいた。
広い会場には天幕が敷かれ、仕切りの中には蓙が敷き詰められている。
その敷地内にダライ・ラマを一目見んとする人達が、ひしめき合っている。
多くは、あの、赤紫色の袈裟を着たチベット人なのだが、中にはぼくのような旅行者とおぼしき外国人の姿もちらほら見受けられる。
よく見ると、どうも会場はエリア別に振り分けられているらしく、ぼくの周りは外国人ばかりだった。
ぼくの目の前にいた背の高い西洋人は、チベタンと同じ風体で、赤紫色の袈裟まで着込んでかなり気合いが入っている。
隣のエリアにはチベット人たちが、座るスペースもないぐらいに押し込められている。

いよいよダライ・ラマの登場だ。
ステイジの上ではお付きの人達がマントラを唱え始める。
荘厳で厳粛な空気が会場を包む。
すると、チベタンエリアのチベタンたちはあんな狭い中、一体どうやってしているのか不思議なのだが、いっせいに五体投地を始めた。
五体投地というのはチベット仏教の独特のお祈り方法で、その名の通り全身をヘッドスライディングのように地面に投げ出して祈りを捧げるのだ。
今や、彼らにとって最も貴い人があらわれようとしているのだから、彼らがその五体投地をするのは当然といえば当然のことなのだが、それを見ていたぼくの目の前のチベットかぶれの、袈裟を着込んだ西洋人までもが彼らに遅れまい、と、真似して五体投地をやり始める。
そして彼が地面にひれ伏すその度に、座っているぼくの顔にひらひらした袈裟の端がぴちぴちと当たるのだ。
ぼくはそういうアジアかぶれの外人があまり好きではないので、本当にそいつをうっとうしく思っていたのだが、そいつは、ぼくのそんな思いなどまるっきりおかまいなしで黙々と五体投地をし続けるのだった。
やれやれ、と思っていると、いよいよダライ・ラマの登場だ。
ぼくはさすがに緊張し、目の前のうっとうしい外人のことなどすっかり忘れて彼が現れるのを息を呑んで待ち続けた。

そして。
とうとうその人が姿を現した。

と、思わずこけそうになった。
だって、普通のおっさんなんだもん。
びっくりした。
もっと、鯱張った難しそうな人が威厳をたたえて出てくるのかと思ったら、普通のおっさんがニコニコしながら現れるんだもん。
あまりに想像と違ったんで、ぼくはしばらくの間放心していました。

更に講演が始まると、オールチベット語で、何言ってるのか一言たりとも分からなかった。
それまた度胆を抜かれたんだけど。
でも大多数のチベタンたちは、彼のいう一言一言に反応し、笑ったり、感嘆の吐息を洩らしたりしているのでした。
予想に反して、始終和やかで、ユーモラスな感じの講演模様となったのです。
でも、それは、すごく心地の良い感じでした。
厳めしい、説教くさいものでなく、もっと対等で、フレンドリーなものだったのだ。

そこでぼくは、思ったね。
ああ、この人は聖人なのだ、と。
こういう人こそが聖人と呼ばれるべき存在なのだ、と。
自分を捨てて、人のために生きる、彼からは、そんなものを感じました。
とても素晴らしいことだ、と思いました。

だって、ぼくの友達みたいな、その辺の一般ピープルにまでいちいち握手してくれて、首にひもをかけてくれるんだぜ。
過去、そんなことを何百回、何千回、繰り返してきたか分かんないのに、それでも嫌な表情ひとつ見せずに、喜んで応じてくれる。
ぼくはその後、その赤いひもをもらった人に何人か出会ったが、みんながみんな、ダライ・ラマはやさしく微笑んでひもをかけて下すった、と、口を揃えて言っていた。
それは決して作り笑いの営業スマイルなどではなく、本心から目の前のその人の幸せを願っての笑顔なのだ。
そういう人なのだ。
他人のために生きられる人なのだ。
そのことは講演を聴いていて、あの、チベタンたちのくつろいだ明るい表情を目の当たりにしているため、すんなりと違和感なく確信することができるのだった。
それは、心の中から自然に湧き出てくるような確信だった。
だからぼくはあの人を現代に生きる聖人なのだ、と思うのだ。
尊敬してしまう………

人のために生きるなんて事は、そうそうできるものではない。
そんなことができるのは、ごく限られた、一部の人だけだ、とぼくは思う。
でも、ダライ・ラマがそうであったように、聖なる人、というのは、実はそんな厳めしいものでもなんでもなく、もっと自然な、その辺で普通のことを普通に営んでいるような人達のことを言うのかもしれない。
悟りを開いてる人なんてのは、じつは、最も平凡に毎日を暮らしている人なのかもしれない。
普通のことを普通にし続ける才能のある人のことを言うのかもしれない。

多分、ダライ・ラマ、という人は、自分の信じたことを、こうだ、と思ったことを普通に、自然に、することのできる人なんだな。
自分を信じるだけの強さを持った人なのだ。
当たり前のことを、当たり前にできる人なのだ。

ぼくは自分を信じていない。
この世の中で一番信じられないのは、自分自身だ。
自分が信じられないので、他人も信じられない。
当たり前のことが当たり前にできない、欠陥を持った人間なのだ。
だから、ぼくは、ダライ・ラマのような人に憧れる。
ちょっとでも、彼のような強さが持てたなら、と思う。
そうすれば、みんなにやさしくできるのに。
ぼくのまわりの人を、愛する人を、傷つけなくても済むのに。
ぼくは、人にやさしくしたい。
人を愛せるようになりたい。
まわりの人に嫌な思いをさせるのは、もう、まっぴらごめんだ。

ダライ・ラマのように、笑顔でみんなを笑わせて、人の心を明るくしたい。
人のために生きられるようになりたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

シリアのために、アメリカのために

ぼくはあんまり時事的なことをここに書くのは好きじゃないのだが、それは、出来事はひとつでも、人それぞれ色んな意見があって、それらの主張は結局お互い相容れず、平行線を辿って、いらないエネルギーばかりを浪費することになり、結局無意味に消耗するのが嫌だからだ。
そんなのは現実だけで精一杯だ。
熱い議論を誘うような題材はあんまり選びたくないのだ。

だが。
今回はどうしても言いたいことがある。
それを聞いたとき、怒りとか、悲しみよりもむしろ、ぐったりとした、とても不快な疲労感に打ちのめされた気分を味わったからだ。
やりきれない思いが胸の中に充満して爆発しそうだったからだ。

周知のように、アメリカとイラクは戦争をやった。
そしてアメリカはフセイン政権を打ちのめし、事実上勝利し、イラク国民を解放したという。
結果はそう伝えられている。
ぼくは戦争反対論者なので、もちろん両国の開戦の報を知ったときも嫌な気分になったのだが、最近のニュースでそのことを知ったときは、それよりも更に、本当にぐったりと、無意味に消耗した気分になった。
アメリカがシリアを攻撃するという。
アメリカに対して、非協力的だという理由で。
もう理由にもなんにもなっていない。
ただ戦争がやりたいだけなのだ。
人を殺したいだけなのだ。

ぼくは前から言っているように、イスラムの国はあまり好きではない。
しかし、シリアという国は別だった。
いや、別と言っても特に好きだというわけではなく、もっと、さらっとしたものなのだ。

政治のことはあまり詳しくは分からないが、あの国も、フセインに似たような独裁者だか何だかが、国の英雄として、至る所で崇められている。
そのおっさんをモチーフにした、ブロマイドみたいなものや、ステッカーまでもが売られていた。
そんな様子を目の当たりにしていると、この国の政治はあまり健康的ではないんだな、と思えてくるのだが、市場のおっさんや、街を歩いている人達、ホテルの従業員、どれをとってもそこから発生する政治的な暗さや陰湿さは全く感じられず、いい人ばかりだった。
もちろん数日間滞在しただけだし、その国にはびこる陰湿な面など分かるべくもないのだが、イランやパキスタンのような、固さ、みたいなものはみじんも感じられなかった。
居心地がいいのだ。
みんな明るくて。
ゆったりしてて。
町自体も、のんびりしているし。
大した観光資源もないので、そんなに観光化が進んでいるわけでもなく。
観光地特有の、日本語話すうっとうしいやつらもいないし。
長旅でくたびれた心身をほぐしてくれるような国だった。

そんなほのぼのとしたいい国が、わがままなガキ大将みたいなアメリカに、悪の枢軸、だかなんだか決めつけられて、論理にもならない小学生がいうような暴論で、制裁を加えなければならない、なんて、絶対に納得できない。

何かがおかしい。
誰かが嘘をついていて、誰かが何かをごまかしていて、そしてそれらを強引に正当化するために、全力で取り組んでいる。
今のアメリカの姿はそんな風に見える。
なんなんだろう?
アメリカ国内の、溜まりに溜まった歪んだうっぷんを、国内で爆発させる前に、その鉾先を、関係のない海外の小国に下手な理屈を付けて背負わせて、解消しようとしている。
正義もヘチマもあったもんじゃあない。
アメリカとは、そんな国だったのか。

ぼくは、昔、アメリカという国に強く憧れていた。
多分、それは、子供のときに見たアメリカの映画や、アニメ、スーパー・スター、それらの印象が強烈で、あまりにも面白かったし、かっこ良かったからだと思う。
たくさん夢を与えてくれた。
やさしかった。
そのとき見たものや、体験したことは今でもよく覚えているし、ぼくの中によく見えないけど、何か、あたたかく光り輝く大切なものをそっとプレゼントしてくれたように思う。
それが。
そんなに強く、やさしい、お父さんのような国だったはずのアメリカが。
平然と正義をかかげ平和の名のもとに、遠くの貧しく無抵抗な人々を爆撃し、虐殺している。

そんなんじゃなかった。
アメリカとは、そんな国ではなかったはずだ。
それとも、ぼくが最初から勘違いしていただけなのだろうか?
でもぼくはアメリカの生んだ大衆的な文化が大好きだし、その楽しみは、国境や、人種や、貧富の差を超えて万人に作用し、悦びを与えるものだと信じている。
そんな素晴らしいものをつくれる国なのだから、そういうエンターテイメント精神にあふれた人達なのだから、どうか、そんな愚かしく、恐ろしい破壊行為は一刻も早くやめて欲しい。
子供たちを殺すのではなく、かつてそうしていたように、夢を与えて喜ばせてあげて欲しい。

なんかテレビで、知識人と呼ばれる人達が分かったような顔をして、アメリカの攻撃は、独裁国家打倒の目的のため正当であり、それによって被る被害は致し方ないのです、安直なヒューマニズムでは、世界的な平和などむしろあり得ないのです、と言うようなことを言っていた。
ぼくはこういういわゆる、大人の意見、には、唾を吐きかけたくなる。
こういう人達は、大人になるということは、青臭い、ナイーヴで感情的で敏感な感性を捨て、もっと冷静で、客観的でクールな意見を持つことだ、と思っているのだ。
要するに、もっともでストレートな意見というのは、こそばゆくって、かっこわるくって口にする勇気が出ないのだ。
ぼくに言わせてみればそんな人達というのは、心がすり減って、鈍磨して、不感症になっているだけの人達だ。

ぼくは、きれいごとを信じる。夢や理想という言葉が大好きだ。
今の日本には、それらのえせインテリの言うような虚無至上主義が横行し、それをむしろ、若い人達の方が率先して信じていて、
夢だとか希望だとか言うと、どうせ、ありえねぇし、だとか、そんなわけないだろ、だとか、ふん、と鼻を鳴らして嫌な目つきでせせら笑う。
期待に裏切られ、自分が傷つくのが嫌だからだ。
考えるのを拒否して、見えないふりして素通りするのだ。
意識してかしないでか知らないけれど、自己防衛本能が働いているのだ。
痛い思いをするのが怖いから、怯えて逃げて逃げて逃げまくる。
そして知らない内に、そういうのがかっこいいことだと思われる世の中になった。
信頼は敵、なのだ。
人を信じていては生きていけない世の中なのだ。

ぼくは勇気のある人が好きだ。
自分の中にある恐れや疑いの心と闘えるだけの勇気を持っている人。
人を信じることのできる人。
そういう人に憧れる。
そういう人を見ると、ああ、自分も頑張って生きていかなくちゃな、と思う。

そんな風に常々思っているのだが、とにかくアメリカは、間違ってもシリアを攻撃するなんていう愚かなことはやめて欲しい。
あの、のんきにお茶を飲みながらドミノゲームに夢中になっていた平和的なおっさんたちが爆弾や銃弾で殺されてしまうなんて、本当にいたたまれない気持ちになる。
そんな悲しいことをする必要なんて、全くないはずだ。
もっと世界中のみんなが喜ぶことをして欲しい。
アメリカという国にはそれだけのことをする力があるはずだし、責任もあるはずだ。
世界で一番豊かで、強い国なんだから。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぜいたくな話 Part 2

以前、「ぜいたくな話」という一遍を書きましたが、また似たようなのを思い出したんで、紹介したいと思います。
ただし、今回は、ちょっときたない話です。
それでもよろしければ、この先にお進み下さい。

ぼくが初めて行ったアジア圏は東南アジア。
東南アジアの国々は御存じの通り衛生状況があまりよろしくないので、無菌国家日本でぬくぬくと育ってきたぼくの内臓は、敏感にそれに反応して一発でブッ壊れてしまいました。
半年ぐらい,下痢に苦しむ毎日。
ぼくは、10年以上ぶりぐらいに恥ずかしながらおもらしをしてしまったんです。おおきいほうをね。
だって普通におならをしたら、もれちゃったんだもん。
別にお腹が痛かったわけでもないし、具合が悪かったわけでもない。ただ、道を歩いていて普通におならをしたら、出てしまったんです。しかも水状の無色透明なの。そんなのって、初めてでした。
それを発端に、次の日目覚めてみたら、嵐のような腹具合い。
雷鳴の如くお腹が鳴り続け、噴水みたいに下痢が止まらない。
5分おきに10回も20回もトイレに行き続けました。

そんな地獄のような毎日がしばらく続いておりましたので、ふいにトイレに行きたくなるのは、珍しいことではありません。
しかし、道を歩いていても、おあつらえむきに公衆トイレがあるわけでは決してなく、人目に付かない草むらで用を足したのは数えられる程ではありません。
カンボジアという国で、世界遺産のアンコールワットを見学中、その敷地内でやむを得ずしてしまったこともあるぐらいです。
地雷の恐怖に怯えながら草むらに分け入って、しゃがみ込むのは、なかなか勇気のいることでした。
そんな危険もありますが、屋外でするのもそこまで悪いものではありません。
開放感があってなかなか良いものなのです。
果てしなく広がる青空を仰ぎ見ながらしていると、何だか自分が大いなる自然の循環の一部にくみこまれたような気がして、心地よい安心感すら覚えることもあるほどです。

それこそ色んな環境でその行為を行ってきたぼくですが、中でも忘れられない特別な思い出があるんです。
それは、チベットの首都ラサからネパールのカトマンズへと、ヒマラヤ山脈を越えていく道中のことでした。

ヒマラヤ山脈は世界で一番高い山、エベレストをその懐に内包するほど規模の大きな山脈なので、その道程も生半可なものではありません。
標高五千メートル超の峠をいくつもいくつも越えていきます。
そんな過酷な環境なので、もう、生物の気配はあまりなく、あるのはコバルト色の濃い青空と、茶色の不毛な大地と、石や岩ばかりです。
そんなところに公衆トイレのあるはずもありません。
しかし人間とは不便なもので、もよおすときは時間や場所に関係なく、問答無用でもよおしてしまいます。
やっぱりぼくもその例にもれず、もよおしてしまいました。
ちょうど五千メートルぐらいの峠を越えようというところです。
仕方なく、車を止めてもらい適当な場所を探して、さあ、いよいよというところでふと顔を上げてみると、茶色の大地を切り裂くように銀色のヒマラヤ山脈が敢然と連なっています。
しばらく放心してその絶景に心奪われ、ふと、我に返って自分の目的を思い出して辺りを見回すと、目の前の姿を隠すために利用した石碑に、何やら文字が書かれていることに気が付きました。
よく見てみるとそこには、漢字でチョモランマ、と書かれているではありませんか。
(チョモランマとは、エベレストのことで、現地の人達はそう呼んでいるのですから、正式名称といっても良いかもしれません)
その位置から眺めた山脈の略図も記されており、それによって、チョモランマの位置を大体知ることができました。
ぼくはそのときもちろんお尻は丸出しで、事の真っ最中です。
空気が薄いため、空の色は異様に濃くなり、景色の輪郭はシャープにくっきりと浮かびだされています。
遠くの景色まではっきりと見ることができます。
チョモランマはまるで、目の前にそびえているようでした。
世界最高峰のチョモランマを眺めながら、そんなことをするのです。
なんだか、恍惚とした気分に捕われました。
空気の薄かったせいもあるかもしれません。
自分は今、こんなにも美しい景色の中でこんなことをしている。
それでも大自然は、揺るがず、うろたえず、自分を受け入れてくれている。
まるで大地の子になったような、そんな大きな気持ちになっていたのです。

都市生活を長年営んでいると、排泄行為というのはどんどん隠ぺいされ、押しやられ、まるで忌み嫌うべき恥ずかしい行いであると感じずにはいられません。
都市生活は、不潔を嫌うからです。
しかし、元来、排泄行為というのは、そんなものではないはずです。
人間が生きていく上で必要不可欠な行為なのですから、悪いものではないはずなのです。
ぼくは、度重なる、屋外体験でそれに気が付くことができました。
決して恥ずべき行為ではなく、もっと自然で、当たり前の行いである、と。
大っぴらにそんなことをできるのは実は、とてもぜいたくなことなのだ、と。

青空に抱かれ、大地に見守られながらそんなことをしていると、ある種のカタルシスにも似たとてもぜいたくな気分を得られるものです。
日光をさんさんと浴びて、燃えるような新緑の草木に埋もれながらしていると、自分が自然とともに生きていた太古の人類のような自由さを感じられ、とても気持ちがいいのです。
原始に戻ったような気がして。

建物の中で、狭い個室に閉じこもってするよりは、よほど健康的で良いことだと思うんですが、やっぱり発展してしまった近代社会では難しいことかもしれませんね。
でもたまにはこっそりと、ゲリラ的にしてみるのもいいかもしれませんよ。

 

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

たのしかったこと

ぼくはどちらかと言うと、インドア派でアウトドアな遊びはあんまりしたことがなかったし、また、それほど興味もなかった。
何だか目に見えて健康的な雰囲気に、反発心だかすねてんだかよく分からない心境になって、それこそよく分からない嫌悪感を、アウトドアに対してずっと抱きつづけていたのだ。
でもアジアを旅行するって事は無理矢理アウトドアをさせられてるのと同じようなものなので、知らない間にぼくはアウトドアな行いをどんどんこなしつつあったのだ。
それでもぼくは反発して、なんだよこんなん、暑いだけだよ、とか、だりぃよ、山なんて登りたくねぇんだよ、とかぶつくさ文句を言ったりしていた、の、だが、実際は心の奥底でそっと楽しんだりしていたのかもしれない、今思い返してみると。
その証拠にどうしても忘れられない、たのしかったこと、が、ぼくにはたくさんあることに気がつく。
それらの内のひとつを今から紹介してみたいと思う。

みなさん、ラオスという国を知っていますか?
ぼくは全く知りませんでした。
そんな国の名前も。そんな国があるということも。

タイの北に位置する国で、人口500万ぐらいの小さな国だ。
本当に田舎というか、自然が豊かというか、国土は緑に覆われていて、いや、ほとんど山で、その山道をオンボロバスで走っていくと、高床式の家にみんな住んでて、棚田が一面に広がっていて、ここは本当に現代なのだろうか? という、ちょっとタイムスリップしたような、異次元に迷い込んだかのようなえも言われぬ気分にさせてくれる、そんな国だ。
だって、山賊が出るっていうんだぜ?
そのスーパーオフロードな山道で。
山賊って、いつの時代の話だよ、山賊に気をつけてね、って言われたってよくわかんねぇよ、そんなの。
仕方ないから超満員のバスの中で、オフロードに激しく身体を揺さぶられながら、山賊に注意してたんだ。
そのおかげかどうか、幸い襲われずにすんだけどね。

そんな風に山賊の危機に脅かされながらやっと辿り着いたルアンプラバンという言ってみればラオスの古都のような町から、再び首都ビエンチャンに帰るとき、また、山賊の危険にさらされるのはまっぴらごめんだったので、何か違う方法を考えた。
そこで出てきたグッドアイディアは、船、だった。
思えば、チベット高原に源を発する母なる大河、メコンが南北にラオス国土をごうごうと流れているではないか。
出会った旅人に教えてもらった、スローボートと言う、船の上で三日ぐらい過ごすやつが値段的にも安いし評判もいいのでそれに乗ってみようといざ船着き場へ行ってみると、スローボートは三日に一回しか出ないと言う。
でも、スピードボートならあるぞ、とそう言われた。
話を聞いてみると、値段はスローボートの五、六倍、時間はそれの三分の一ぐらい。
宿の値段が一泊五、六ドルの物価の国で、五十ドルぐらいかかることになるのだ。
飛行機で飛ぶのと一緒ぐらい。
何のメリットもない。
でも、船着き場周辺は宿も何もなく引き返すにもルアンプラバンまで車で二、三時間かかるところなので仕方なくお金を払って乗ることにした。
で、乗るときに、変なヘルメットをかぶらされた。顔面にプラスチックのシールドがついているやつ。
さらにライフジャケットも。
そしてそのまましばらく客待ち。
直射日光で蒸れるヘルメット内。
自分の息遣いが規則的に響く。
もうだめだ、ヘルメットを脱ごう、と思ったそのときに、お客がひとり。
自分と同じ格好をしたおっさんが乗り込んできた。
ふう、やっときたか、と一息ついてたら目の前に現われたのが、ヘルメットかぶったお坊さん。
あの、ビルマの竪琴みたいなオレンジの袈裟着たお坊さん。
さらにその上にライフジャケットまで羽織ろうとしている。
そして、東南アジアの国々ではお坊さんは大変尊敬されているので、運転手だとか、さっきのおっさんだとかがヘルメット姿のその坊さんに向かって手を合わせて拝んでいる。
ぼくはその様子がおかしくっておかしくって、声を出さないように、笑いを押し殺すのに必死だった。

さて、どうやら三人ぐらい集まればドライバーは満足だったらしく(恐らくぼくが外人料金として、三人分ぐらいは払わされている)、彼はいよいよエンジンのスターターを引いた。
スクリューがごう音とともに水飛沫をあげる。
乳白色のメコンの水を荒々しくかき回す。
みんなヘルメット姿で神妙な面持ちで出発を緊張して待っている。
いよいよ出発だ、と思ったその瞬間ボートは物凄い勢いで水面を滑り始めた。
重力の影響で坊さんのヘルメット頭が激しく左右に揺れる。
ぼくはまたもやおかしくておかしくて、笑いながら同じように揺れていた。

しかし、いくらメコン川が大きいといっても、ここまで上流に来ると川幅もぐっと狭くなり、水流も勢いづいていてとても激しい。
あちこちに竜巻きみたいな渦がいくつもできている。
ドライバーはそれらの渦の回転をうまく避けながら、物凄いスピードで船を走らせる。
実際何キロぐらい出ているのかはっきりとは分からないが、体感速度では百キロ以上は出ていたように思う。
それぐらい速かった。
しかも激流で、うねる波間には大きな岩がいくつも顔を覗かせ、ああ、何かの間違いであれにぶつかったりしたら、死ぬな、と寒々しい気分になり、目の前で揺れている坊さんのヘルメット頭もあんまり笑えなくなってきた。

でも慣れてきてまわりの景色なんかも眺められる余裕がでてくると、こんなスリリングな遊びは他になかった。
ディズニーランドのジェットコースターなんて比べ物にならないぜ。
だってこちとら本物だもの。
断がい絶壁に、ツバメの巣があるらしく、何匹かその周りを旋回している。
そしてその様子が青空をバックに逆光で輝き、風切り音で音もなく、映画のワンシーンのような叙情的な風景に仕上がっている。
夢見心地で周りを見ると陸地は広大なジャングルで覆われ、野生の虎なんかが顔を出してもちっともおかしくないような光景だ。本当に夢を見ているような感じになった。
こんなところに自分がいて、こんなことをしてるなんて、ちょっと信じられないような気分。
こんな世界はテレビの中だけのできごとだった。
それが今、目の前に広がっている。
淡白なリアリティを伴って存在している。

水面をよく見てみると、実に様々なものが流れている。
木の枝や、流木、プラスチックなんかの人工的なもの、果てはなんだかよく分からない生き物の死骸まで、色んなものが沈んでは浮かび、浮かんでは沈んだりしている。
あるものは二度と浮かび上がってこない。

またもや再びゾッとした。
自分たちがいつこうなってもおかしくはない。ちっとも。
こんな重装備している理由がよく分かったよ。

でもおかげでその船旅は緊張感があって、とてもたのしいものとなった。
遊園地と違って安全が保障されていないのが良かったかもしれない。
多分、たのしいことって、リスキーであればリスキーである程面白みが増すと思うんだ。
ゾクゾクするような高揚感。
安心してたら味わえないもんね。

あのときひょんなことからあのスピードボートに乗れて良かったと思う。
とてもたのしかった。
あの光景は未だに忘れられないし、あんな体験はそうそうできそうもないからね。
もちろん、無事だったことにも感謝してるけど。

やっぱ何をやるにしても命をかけるぐらいの、誠実さって必要だと思うんだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

キサールの幽霊

つい最近読んだのが、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という本。
その中で、”夜の暗さ”のことについて述べられていた。
ちょっと抜き書きしてみる。

 けだし近代の都会人は本当の夜というものを知らない。いや,都会人でなくとも,この頃はかなり辺鄙な田舎の町にも鈴蘭燈が飾られる世の中だから,次第に闇の領分は駆逐せられて,人々は皆夜の暗黒というものを忘れてしまっている。
 私はそのとき北京の闇を歩きながら,これがほんとうの夜だったのだ,自分は長らく夜の暗さを忘れていたのだと,そう思った。そして自分が幼いおり,覚束ない行燈の明かりの下で眠った頃の夜と云うものが,いかに凄まじく,わびしく、むくつけく,あじきないものであったかを想い起こして、不思議ななつかしさを感じたのであった。

これを読んでいてふと思い出したことがある。
それはパキスタンのフンザでのことだ。

フンザというのは、パキスタン北部のヒマラヤの山々に囲まれた小さな村。
景色がとてもきれいで,春になれば杏の花の咲き乱れるその光景は桃源郷と称されるほどに美しい。
実際人々も穏やかで長生きの人が多く、世界的にも長寿の村として知られている。まさに桃源郷である。
でもやっぱり、桃源郷だから桃源郷らしく、テクノロジーはあまり発達しておらず、その恩恵からはちょっと縁遠い。
ぼくが行ったときは何と村全体が停電していた。
そのとき既にもう一週間ぐらいその状態で、聞くところによると復旧までさらに何週間もかかるという。
要するに,街灯も何もない状態でしかも山奥のさらに奥にあるような小さな村なので、その暗さと言ったら尋常ではない。
まさに真っ暗やみだった。
谷崎の文章を読んでいて,ああ,彼の言っているのは,オレが体験した,フンザでの夜のようなことなのではないのかな、と、そう思った。

ぼくの泊まったその宿は,たまたまそのとき他に宿泊客が誰もおらず,ぼく一人だけだった。
昼過ぎ頃到着して、そこの従業員とぺちゃくちゃ談笑し、夕方になって日が暮れて,いよいよ夜になって真っ暗な闇がしっとりと訪れた。
ランプに火をともして食事をし,自分の部屋と食堂とを行ったり来たりした。
しばらくしてさらに夜も更けて,従業員達は明日朝早いからもう寝るよ,と自分たちの部屋に帰っていってしまった。
ぼくはといえば,その日着いたばかりなので興奮してしまってすっかり目が冴えてしまい、ちっとも眠くならないため、とりあえずその食堂で眠たくなるまで時間を潰すことにした。
そういう安宿によくある情報ノートというのがそこにもあって、何気なくそれを読んでいた。
日本人もよく滞在するようで日本語で書かれているものも多い。
すると,トレッキングなどの情報に混じって、ちょっと不思議なことが書いてある。
その宿の9号室に幽霊が出るというのだ。
よくよく読んでみると、複数の人達がその意見に賛同している。
ベッドの上にジャージのようなものを着て,正座して窓の外を眺めているおじさんがいるというのだ。しかも日本人の。

そうそう,私も同じものを見ました!
そうです,おじさんが座ってるんです!
ジャージきてますよね!
日本人ですよね!

そうしてそれは10年ほど前ある著名なアルピニストがウルタル峰というフンザから程近い雪山で命を落としており、彼の幽霊であるという結論で締めくくられている。
成る程、事故で亡くなった彼のその話はガイドブックにも書いてある。納得だ、けど、納得したくねぇよ、そんなこと。
こんな停電の真っ暗闇でランプの乏しい明かりの揺れる中、たった一人、深夜,そんな話を聞かされるものの身にもなってくれよ。
ぼくの背筋には一気に冷たいものが走りまくって、背筋だけではおさまらず,体全体が総毛立った。
だめなのだ。
ぼくは幽霊というものが大変苦手なのだ。
そして,ぼくの部屋は11号室だった。
すぐ近くじゃん!

ランプを片手に恐る恐る部屋に帰った。
帰る途中,月光に照らされ9号室が妖しく霞んでいる。
ぼくはなるべくそこを見ないように見ないように通り過ぎた。
するとおあつらえ向きに、部屋にはいったその途端ランプの燃料がぷつりと切れた。
まさに漆黒の暗闇だ。虫のなく声すら聞こえない。
もうぼくは怖くなって、いち早くふとんに飛び込んだ。そうして頭までふとんをかぶって眠ってしまおうとひたすら努力するのだが,どうしても眠ることができない。
暗闇と静けさはこのぼくを,この世に生きている唯一の生物と思わしめる。まるでどこか宇宙の見知らぬ星にたった一人でいるかのようだ。
背中が寒くて寒くて,足ががたがた震えて止まらない。
闇の向こうに得体の知れないものがじっと潜んでいるようで,そんな妄想が止まらない。

いたたまれなくなってろうそくに火をつけた。
するとどこからか,一匹の蠅がその炎につられて飛んで来た。ぼくはそんな精神状態だったから、蠅のような普段であれば見向きもしない、むしろ忌み嫌うはずの存在に物凄く親近感を覚えてしまい、何だか、小さな仲間を見つけたようでほっとした。
くだらない、ただの蠅なのに………

思ったね。
一人というのがどんなに心細いのか。そしてどんなに無力なものなのか。
命というものがその姿形に関わらずどれだけ温かく、大切なものなのか。
ぼくは思わず微笑みながらその蠅を眺めてしまったよ。小声でぼそぼそ何ごとかを語りかけながらね。
凄く心強かった、のだが、その蠅は蠅らしく,文字通り,飛んで火にいる夏の虫,とばかりにろうそくの炎に飛び込んで、ジュッという音とともにあえなく焼け死んでしまった。

たった一人の大切な友達を失ってしまったぼくは,もうだめだ,と思い無理でも何でもふとんにもぐって眠ってしまおう,と心に決めて、ろうそくの炎をフッと吹き消したその瞬間、外で、バタン、というとても大きな音がして、思わず、うわぁ、と大声で叫んでしまった。
もういよいよ震えが止まらなくなり、どうしようもないので来るなら来てみろとばかりに、やけくそで叫びながらドアを、がぁっと開けてやったのはいいが、そこには部屋の中と変わらぬ闇と静けさが広がっているだけだった………
結局その音は何だったのか、最後まで分からずじまい。

そんなこんなで暗闇と格闘して一夜を明かしてみると、次の日の朝、実はすぐとなりの部屋で従業員の一人が眠っていたらしく、お前、昨日夜遅く何だか大きな声を出していたみたいだけど、一体どうしたっていうんだ、と、あくびをしながら尋ねて来た。
すっかり客室には自分一人と思っていたので、そうと分かっていればもっと安心して眠ることができたのに………
少々、拍子抜けした気分だった。

まあ、そんなオチもついた一晩の体験だったのだが、その後も結局幽霊さんには出会わず、ほっとした次第であった。

まあ、そんな経験をしたぼくだから、夜の闇が、谷崎の言う、

 ”凄まじく、侘びしく、むくつけく、あじきないもの”

である、と言うのは何となく分かるような気がするんだ。
もう、今の日本では、ああいう暗さというのはよっぽどのところへ行かないと味わえないからね。どこ行ったって街灯ぐらいは光ってるでしょう。
ぼくもあんなの初めてだったもんなぁ………、いやまてよ、その前にもうひとつあったぞ、確かラオスを旅してたときに。
この話は今、関係ないのでまた今度詳しく話します。

日本という国だけに限らず、先進国と呼ばれる国々のほとんどは、生活から闇を追い払っているように思える。
夜を無くしてしまおうとしているかのように思える。
それは見えないものや、判別できないものに対する恐怖から逃れるためなのだろうか?
未知なるものへの恐れの気持ち。
そんな不安から、周りを明るく照らしだそうとする。
闇を追いやって全てを判別可能にして安心感を得ようとする。

でも、ぼくは、そういう闇も必要なんではないのかな、と思うんだ。
すべてを理解し尽くすことなんてできるわけがない。
曖昧なところは曖昧なままでいいと思うし、夜の闇の怖さもある程度は必要なんじゃないだろうか。
恐怖心、というのは人間にとってけっこう大事なものなんだと思うのだ。
見えないものや、得体の知れないものに対する畏れの気持ち。
自分以上の存在というものを体で感じて覚えておくこと。

眠らない街をいくつもつくって、夜を征服した気になって、傲慢になってしまい、歪んだ万能感に浸っていては、これから訪れる人間の未来にとって良くないもんね。
夜の暗さや、分からないことというものもある程度必要で、また、そこから生まれてくる人間の想像力こそが人を戒め、成長させるのだ、と思うのです。
だから、何ごともあんまりはっきりしちゃあ面白くない。
昔の人が見えないものや分からないことから、想像力を働かせて様々な神話や物語りをつくり出したみたいに、今の世の中もみんながそういう自由な発想を持てればいいのにね。
そうすれば、想像力豊かな楽しい社会になると思うんだ。
文化というのは案外そういうところから出発していくものなのかもしれない。
幽霊には会いたくないけどね。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ヴードゥー・チャイルド・スライトリターン

ジミ・ヘンドリクスって知ってるかい?
ある、天才ロック・ギタリスト。ギターを共鳴させる天才。
彼にとっては言葉を話すより、ギターを弾くことの方がより有効なコミニュケーションの手段だったんだ。

ヴードゥーの申し子。悪魔に魂を売ったギタリスト。
ドラッグとブルースに溺れた男。悲しい男。

ネパールの山奥の山小屋に、奴が壁に書き付けた落書きがあるんだ。
それは、こんな詩の一遍。

      「ヴードゥー・チャイルド」

 俺は氷山の頂きを眺めていた。
 俺は今にも崩れ落ちそうだった。
 俺は氷山の頂きを眺めていた。
 俺は今にも崩れ落ちそうだった。
 
 氷山を形作っているそのかけらは、突き詰めれば砂のひとつぶ ひとつぶに帰するのだ、と一人納得していたのだ。

 そうさ、分かるだろ? 
 俺は、ヴードゥー・チャイルド、
 ああ、神様、俺はヴードゥー・チャイルドなんだよ。

 俺はもうお前を必要としない、そう、必要としないんだ。
 この世では、な。
 来世で会おう。向こう側の世界で。
 そのとききっとまたお前と出会える。

 どうか咎めないでくれよ、
 俺は、ヴードゥー・チャイルド、
 ああ、神様、俺はヴードゥー・チャイルド。

 連れていってやるよ、素敵な世界へ。
 見たこともないような世界へ。
 そうさ、俺はヴードゥー・チャイルド、ヴードゥー・チャイルド………

ギターは共鳴して哭いている。
ヒマラヤは、天空を切り裂いている。
コバルトの青空は、そこから流れ出る青い血液のように空間を埋め尽くし、ジミはそれを眺めながら、砂のひとつぶひとつぶを想っていたんだ………

最大と最小。
分子レベルの極小から果てしない宇宙の広がりまで世界は同時に存在し、まるで何の矛盾もないかのようにただ単純に美しく、目の前に圧倒的に広がっている。

ヒマラヤの冷たさはオレを殺した。
ジミもそれを見て同じように感じていたのかと思うと興奮する。
それを感じながら、”ヴードゥー・チャイルド”を書いたのだ。

オレもきっと、ヴードゥー・チャイルド。
果てしない天の道を眺めつつ、地面の底の底を這いつくばってゆく、ヴードゥー・チャイルド。
ああ、神様、こんなオレを許してくれよ、慈悲深い全能の神よ、罪深いこのオレのためにどうか祈りを捧げてくれ………

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

くわをかついだ男

くわをかついだ男に出会った。パキスタンの山奥でのことだ。
風の谷、と呼ばれる風光明媚な山道で、透き通った青空をバックに光り輝く日光をさんさんと浴びながら、その男はくわをかついで歩いていった。

おそらく、4、50代だと思われるその男は、20代前半のぼくを置き去りにしてスタスタと歩いていってしまう。
恥ずかしながらこのぼくは、ぜぇぜぇ言ってまるっきり追いつくことができなかったんだ。
荒ぶる呼吸の中で汗を垂らしながら、その男の姿にある種の感銘を覚えた。

近代的な装備に身を固めているぼく。
かたや、簡単な普段着にサンダル姿のその男。
速くて追いつけない。
男は口笛でも吹かんばかりの身軽さで、見る見るうちに離れていってしまう………

ぼくは思った。
文明がなんぼのもんじゃ、と。
文明人のこのオレは、発達したテクノロジーに囲まれ、守られ、こんなにも脆弱だ。
だって、ただのおっさんだぜ?
見てみろよ、あのさっそうとした出で立ちを。
朝日を浴び、空や木々や花々や、あらゆる自然の色彩の奇跡と一体となって歩くあの姿を。
それに比べてどうだ、このオレは。
ぜぇぜぇ言って。
自然から拒絶されている。
風景はオレを、自身に同化させない。
弱々しいこのオレを。
彼は自然に愛されている。
大地に祝福されている。
まるで山々や木々の歓喜の歌声が聞こえてくるかのようだ───

野生の美しさの消えた都会で、野性的な美しさに思いを馳せる。
コンクリートの建物に囲まれながら、あのおっさんを思い出していた。
単純で力強く、絶対的なもの。
おっさんはくわをかついで柔らかに微笑む。
その姿に強烈に惹かれている自分を、自分自身の中に見い出した。
太陽の明るさを、青空の美しさを、当たり前のことが当たり前に美しいということを、すっかりと忘れかけているぼくだった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

煙草

ぼくは以前まで煙草を吸っていた。今は吸わないけど。
ネパールにいた頃は吸っていた。けっこうすぱすぱ吸っていた。

カトマンズで乗り合いバスに乗っていて、煙草を吸っていて、ぼくは紳士的なマナーを心得た人間なので、プラスチックのフィルムケースを携帯灰皿としていつも持ち歩いていて、そのときもそれを使ってその中に吸い殻を捨てていた。

するとそれを見ていたネパール人の少年が、

   ”おいお前、一体何してるんだ? 
      そんなものをそんなところにため込んで
             一体どういうつもりなんだ?”

とちょっとバカにしたような感じで笑いながら言ってきた。
やつらには公共道徳という観念はまるで根付いていないので、ぼくの紳士的な行いの意味が分からないのだ。
だからぼくは説明してやった。

 ”君たちの街を汚したくないから、わざわざこんなものを持ち  歩いているのだよ。ほら、煙草を吸った後ここにこうして吸い殻を入れているのだよ”

と分かりやすくいちから説明してやった。
するとやつは鳩が豆鉄砲くらったような表情できょとんとぼくの方をしばらく見つめた後、何か深く感銘を受けた様子で、オーケイ、ブラザー、お前の言いたいことはよく分かった、といわんばかりに首肯し、乗り合いバスの運転手に声をかけた。
そして、ネパール語でドライバーと何やら二言三言会話を交わすと、ぼくに向かって笑顔で手を差し伸べた。

そして、
 ”じゃあな、マイフレンド、良い旅を”
と言いおいて去っていった。

ぼくは彼のその様子を見ながら、ああ、ありがとう、と言って手を振った。彼の態度の変化を訝りながら。

そして目的地についてお金を払おうとしたらドライバーは、お金はもうもらってるよ、とぼくの申し出を断った。
やつが払ってくれていたのだ。

ぼくはやつのその行動をかっこいいと思った。
やつはぼくの紳士的な行いに敬意を表したのだ。さり気なく。
あいつめ。粋なことをしやがる。少年のくせに。

それはプライドのなせる技だと思う。
自分の住む街に対するプライド。
自分の生まれた国に対するプライド。
そしてそれを愛した人に対する敬いの気持ち。
プライドがなければそんなことできない。
誇りを持ってなきゃそんなことできない。

果たして、日本にそんなことできる人が何人いるだろう?
子供なんて言うに及ばず、いい年こいた大人でさえも。
あんまりいないと思う。
自分の生まれた街を、自分の育った国を、愛し、誇りに思ってる人なんて一体何人いるのだろう?
そして、そんな誇りを持てる国だろうか?
日本という国は。
それを持つに値する国だろうか?
今の日本の現状は。

ぼくは自分の国を良くしたい。
自分の住む街を素晴らしいものにしたい。
世界に冠たる誇らしい場所にしたい。
ネパールの少年のさり気ないその行動は、ぼくに深い感銘を与えた。
そしてぼくも、やつみたいに自然にそういう行動のできるかっこいい人間でありたい、と、そう思った。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。