途中下車

私の旅は、そもそも途中下車だった。
その意味は文字通り、列車などを目的地まで行かず途中で降りるというものだ。
自分の将来がぼんやりと見え始めた私が、その人生を一度降りるという意味でこの『STOP-OVER(途中下車)』というタイトルをつけた。

もともと初めて途中下車という言葉の知ったのは高校生のときである。
もちろん、その意味はもっと以前から知っていたが、ある種の思い入れを持ったときが高校生のときだったというべきであろうか。

それは私の好きなある作家の、自身の若い頃を綴ったエッセイの一つに『途中下車』というタイトルのものがあった。
今となって記憶している内容も、曖昧だが、あえて調べることはせずに、私の記憶の範囲内で少し紹介したい。

彼、つまり若かりし日の作家は、高校3年生の冬、故郷から大学受験のために友人と列車に乗り、東京へと向かっていた。
そして、たまたま同じシートに乗り合わせた女子高生と言葉を交わすようになった。

彼らは連絡先を交換し、女子高生はある地方の街で降りた。
彼女はそこに住んでいる。
その後、彼らは、東京へと受験に行かなければいけないが、何を思ったか、彼女の住むとなり街で降りてしまう。
そして彼らは親から受験のためにもらったお金で、彼女の住むとなり街で、数日間過ごした。
しかし勇気がなく、彼女に連絡はできなかった。
その上、親には受験をしたことにして帰郷する。

後日、作家が友人の家に遊びに行ったときに、電話が入る。
作家がふざけて電話に出ると、例の彼女からだった。
彼女は作家のことを、彼の友人だと勘違いし、好意があることを伝える。
しかし作家は何も言わずに電話を切ってしまう。
つまり彼女は好意を拒否されたと受け取ったわけだ。
友人が作家に『誰からだ?』
と聞くと、
作家は『間違い電話だ』
と嘘をつく。
そして、その彼女と再び連絡を取ることはなかった。
作家がその紙面で打ち明けることができたのは、その友人が数年前に事故で亡くなったからだと告白している。

私が思い入れを持ったのは、青春の思い出の1ページとして共感したのではなく、途中下車することで、良くも悪くも、その後の出来事に物語としての広がりができるという点である。
つまりそれこそが、旅そのものの公式なのではないかと今でも思っている。

私自身はこの旅を、人生の途中下車と考えたが、同じレールへと戻るつもりであった。
もちろん途中下車はその後の生活に、いろいろな変化をもたらすであろうが、私は、 基本的には、旅をする前に考えていた人生を歩むつもりであり、それはゆるぎないと確信していた。
しかし途中下車はやはり私にそれを許してくれなかった。
私の途中下車は、その後の人生に変化をもたらした。

そして今では途中下車、つまりSTOP-OVERにもう一つの意味を考えている。
STOPは止まる。
そしてOVERは終わるという意味である。
つまり停止し、終わってしまうということは、同時に再び動き始めるために必要な動作なのではないかということだ。

そして私の旅もここに終わるが、再び別の暮らしが始まる。
途中下車したものの、元のレールには戻れなかった青年が、別の道を行く。
旅というのは変化への始まりなのかもしれない。
終着駅というのは同時に始発駅でもあるのだから。

STOP-OVER END

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ラスト・バス

バスが出発するまでは、特にやることがなかった。
街の中心へと行ってはみたが、日曜日でほとんど店が閉まっている。
食べ物を求め、スーパーへ行ったが、午後1時までということで、すでに閉店していた。
日曜日は働かないというのが、この国のスタイルらしい。
仕方なくファーストフード店へ行き、ハンバーガーとファンタオレンジを買うと、残りのナミビアドルはすっかりなくなっていた。

バスは街の中心部から、午後5時に出発した。
2階建ての豪華バスがこの国の経済発展を物語っているようだった。
ここではこれが普通だ。

香港を出発して以来、ひたすら南アフリカの喜望峰を目指して移動を繰り返してきた。
列車やバス、船で移動したこともあったし、時には自分の足で何日も歩いた。
そしてこのバスを降りたら、そこはもう南アフリカのケープタウンである。
ケープタウンは喜望峰へ行くのに基点となる街で、長距離の移動はこれが最後になる。

ジンバブエのハラレを出てからは、列車を乗り継いで、世界3大滝のひとつである、ビクトリアフォールを見に行った。
落差が100M以上もあるその滝は、やはり迫力があった。
また、その周辺の川でラフティングも体験した。
これも、初めての経験で面白いものだった。

その後はナミビアへと向かい、ナミブ砂漠へ足を踏み入れた。
そこへは、4WDのレンタカーを借りて行った。
完璧な砂漠というものを初めて見た私は興奮した。
砂はさらさらしているが、案外ごつごつした岩があったりして、写真などで見る美しい砂漠というのは、めったにないのかもしれないなどと思った。

そして砂漠の夜も印象に残っている。
砂漠へ向かう途中、街もなにもないところで、夜になってしまい、仕方なく野宿をした。
車を道から離れたところに停め、砂の上にシートをひき、寝袋に入った。
上を見上げると、そこらじゅうに星があって、本当に天然のプラネタリウムのようだった。
天の川くらいはどれかわかるかと思ったが、あまりに星が見えるので、それさえも分からなかった。
視界に入るものが全て星だけというのは、替えがたい贅沢な時間であった。

今、私の乗っているバスは、進路を南へ取り、ひたすら走っている。
有料のコーヒーサービスがまわっている。
エアコンもきいて、快適な移動が約束されている。
シートのクッションが良く、もちろんリクライニングがある。
バスでは、比較的新しいハリウッド映画を流していた。
『シティ オブ エンジェル』というその映画は、今まで見たことはなかった。
かといって、見たいと思っていた映画というわけでもない。
私は、私の知っている価値観とは全く違う世界を旅しているつもりであったが、そろそろまた同じところへ戻ってきたような気がしていた。
快適な移動が旅ではないと言うつもりはもちろんないが、体は苦しくても心が躍るような旅の時間は、そろそろ終わりを迎えようとしているように思えた。

ジンバブエを出てからペース上げ、ゴールである喜望峰へと急いできた。
それは長すぎる自分の旅への決着をつけるためだった。
しかし、実際にそれが自分の目の前に現実となり現れようとしている。
最後のバスだというに、最後の長距離移動だというのに、旅の醍醐味というものを感じることができなかった。
それはバスが豪華だからだろうか。
ハリウッド映画のせいだろうか。
あるいは私のせいだろうか。

一つの夜をくぐり、朝日が昇ってきた。
ひらすら続く地平線が見える。
地平線まで続くのは農場とスプリンクラーだ。
このバスが止まったときに、私の旅も終わりを告げる。

喜望峰は、実際のアフリカ最南端ではない。
実際の最南端はさらに南東にある、アグラス岬という所である。
しかし、バスコ・ダ・ガマが、喜望峰を発見して以来、長い間そこがアフリカ最南端 だと考えられていた。
恥ずかしい話だが、旅の途中まで私もそう思っていた。
しかしどこか最南端であるかは、少なくとも私にとってはあまり意味のないことだった。
喜望峰は、私にとって地の果てであり、ゴールであるのだから。

望峰へ行くのに、起点となる街は、南アフリカのケープタウンである。
南アフリカと言えば、ヨハネスブルクがその治安の悪さで有名だが、ケープタウンも 決して治安の良い街ではない。
しかし、街そのものは、高層ビルなどは少なく、石畳の小道があったりして、昔の ヨーロッパを思わせるものだった。

そして喜望峰は、そのケープタウンから車で2時間も行けば着く距離にある。
私はレンタカーを借りて喜望峰へ行くことにした。
直接喜望峰へ行こうかとも思ったが、私は少し寄り道をした。
南アフリカという国は、雄大な自然が残っていて、野生動物の宝庫でもあるのだ。
もし、治安の問題を解決できれば、観光大国になれるだろう。

そのなかで、私が訪れたのは、ハマナスという港街だった。
そこに小さな入り江があって、その中に鯨が入ってくるのだ。
つまり陸地から鯨を見ることができる場所なのだ。
実際、湾岸の高台の公園から、多くの鯨を見ることができた。
潮をふいているもの。
大きくジャンプしているもの。
キューンという、鯨特有の泣き声を聞かせてくれるもの。
鯨を見ることは、以前から私の小さな夢のひとつだった。

そのあと喜望峰への途中で、ボルダ?ズビーチというアフリカペンギンの生息地があ るので、そこへも寄ってみた。
ここはビーチに沿って、ウッドウォークがつくられており、彼らのテリトリーを侵すことなく、見学ができるようになっている。
そこには、ざっと数百のアフリカペンギンがいて、打ち寄せる波に向かってダイビングし、しばらくしてまだビーチに戻ってくるということを繰り替えしていた。
おそらく餌を探しているのだろう。
そんなことをして、写真を撮っていると、もう日が暮れかかり、その日に喜望峰まで行くことは断念した。
そしてそのボルダ?ズビーチの近くにある、ペンションに泊まることにした。
夜、窓から海の方を見ると、ペンギンが庭まで遊びに来ていた。

翌朝はよく晴れていた。
海岸線を車で走ると海風が気持ちいい。
私はようやくこの日を迎えることができ少し興奮していた。
そして喜望峰へと足を踏み入れた。

喜望峰とその一帯は自然保護区になっていた。
だからそこには人が住めない。
そして喜望峰は意外にも観光地だった。
大きな駐車場が完備されており、次々に大きなマイクロバスが到着する。
客のほとんどはヨーロッパ人であるが、中国人か台湾人らしい人たちもいた。
『Cape of Good Hope』の看板の前で、次々と記念撮影をしてい
る。
そこには、地の果てという厳しさはない。
ただの観光地である。

それについては、少し拍子抜けした気がした。
しかし、私は別に喜望峰の景色を見たかったから旅に出たわけではない。
それが目的で、香港から陸路と航路でこの地を目指したわけではない。

私も一応その看板の前で写真を撮ってみた。
そして海岸の砂に座り海を見て見る。
そこは、ただの海ではあるが、インド洋と大西洋が交わっているのだ。
高台から見ると、二つの渦がぶつかり合っているところが、見えることもあるらし い。

私は、私なりに今までの旅を思っていた。
15ヶ月前、私はどんな思いで香港を出発したのだろうか。
わずか15ヶ月前の自分が、すでに遥か昔のことのように思える。
あのときは、喜望峰へ陸路と航路のみで行くなんとことが、本当にできるとは自分で も思ってはいなかった。
でも、できる限り、陸をつたって移動することで、少しは世界というものを感じてみ たかった。
飛行機とインターネットで狭くなってしまった世界を、自分の足で歩いてみたかっ た。
陸をつたい、いくつもの国をとおり抜け、見て、感じて、考え、判断し、行動する。

その繰り返しによって、私は、自分自身を測りたかったのかもしれない。

別に目的はなかった。
ただ、その先に少しずつ見え始めた、平凡で平穏な生活を手にする前に、一度だけ最 後の旅をしたかっただけなのだ。
その平凡で平穏な生活を続けていくためには、私には旅が必要だった。
しかし、その平凡で平穏な生活は、旅に出たことでもうなくなってしまった。

私は旅の途中から、旅で失ったものと、得たものを並べてみては、この旅の意味をずっと考えてきた。
でもそうやって、プラスとかマイナスとか、損得勘定で物事を考えるのはもうやめにすることにした。
そんな計算自体になんの意味もない。
人生にはリセットなどないのだから。

後悔の気持ちは、欠片もなかった。
また新しい生活を始めればいい。
この旅はそのための助走だった。
いつかそんな風に思える日がくるといい。

喜望峰の海岸は、白い貝殻が砕けて砂状になったものでできていた。
私はその貝殻の砂をフィルムのキャップに詰めた。
今日ここで感じたことを忘れないために。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

公然たる闇両替

バスがジンバブエの首都であるハラレに到着したのは、午後7時を過ぎていた。
辺りはすでに暗い。
そこから安宿までは歩けば20分くらいで行ける距離だった。
しかし、その区間をタクシーで行くことにした。
別に荷物が重いからではない。
バックパックが重いのはいつものことだ。
ハラレは治安が悪い。
アフリカのなかでも、南アフリカのヨハネスブルクは別格として、ケニアのナイロビと同じか、それ以上に悪いとされている。
だから、ハラレのバスターミナルからバックパックを背負って歩くことは、
『私はアメリカドルをたくさん持っている旅行者ですよ』
と宣伝して歩くようなものなのだ。
まして、日も暮れている。

私はタクシーを捕まえ、10分ほど走り、日本人宿に行ってみた。
そこでまず目に入ったのは、フロントの横に貼ってあった、日本大使館からの注意書きだった。
そこには、道を歩いていると後ろから石で殴られて現金を奪われたとか、数人に囲まれてナイフで脅されて現金を盗られたかとか、そういった犯罪が多発しているとのことだった。
月に2、3件はおきているらしい。
それも、真夜中に起きるのではなく、夕方4時頃など、わりと日のあるうちに犯罪に遭うらしい。
しかも場所はその宿の周辺が多い。
明らかに旅行者狙いの集団が存在すると思われる。
極め付けに、数年前にその宿に数名の強盗が押し入ったらしい。

犯罪が多いのはどこに行っても同じことなので、その宿に泊まろうとしたが、あいにく満室だったため、隣の安宿に泊まることにした。
隣の宿は、日本人宿に比べても清潔だったし、料金も変わらなかった。
しかもマネージャーが気さくな人で、居心地がよく、思いのほか長くそこにいることになってしまった。

次の日、まずは両替のために街を歩いてみた。
街の中心には高層ビルが建ちならんでいて、いかにも都会の街並みだ。
銀行も、もちろんある。
銀行には、長蛇の列ができていて、銀行から公道へと続いている。
まるで取り付け騒ぎのような様子であるが、そうではないらしい。
ジンバブエ人が銀行へ行く目的は、お金を下ろし、闇で両替することにある。
つまり自分の口座に何かしらのお金が入ったら、一刻も早くお金を下ろし、それを闇両替でアメリカドルかユーロにするのが目的である。
なんで、そんなややっこしいことをするか簡単に言うと、ジンバブエは超インフレのため、ジンバブエドルの価値がどんどん下がっている。
だからアメリカドルに両替をしようとするが、インフレで、公定レートが意味をもたなく
なっている。
そのため銀行ではアメリカドルを売ることができても、買うことができず、必然的に、闇両替でアメリカドルを買うことが、公然と行われるようになっているのだ。

だから、一般人は、銀行でお金を下ろした後、毎日価値の下がるジンバブエドルから、アメリカドルに両替するために、闇両替と走ることになる。
そうしないと、自分の持っているジンバブエドルが、一日ごとにその価値を失っていくことになるのだ。

とは言うものの、小さな買い物などは、やはりジンバブエドルで行うために、私のような旅行者は、ジンバブエドルを持たなくてはならない。
もちろん両替は銀行ではなく、闇で行う。
私は他の旅行者から聞いた時計屋を探した。
そこの主人が、わりといいレートで両替してくれるとことだった。
その時計屋はすぐに見つかったが、オーナーが不在で両替できなかった。
しかもオーナーは旅行に出掛けていて、1週間は帰らないとのことだった。

仕方なく私は他の両替屋を探した。
何も情報はなかったが、こういうときはお土産屋など、旅行者がよく集まるところに行くとなんとかなるものだ。
街の中心のなかに大きな公園があり、そこに露天の土産屋が出ている。
そこへ行ってみた。

そこには手作りの小さな彫刻や、お面、絵、アクセサリーなどのお土産屋がならんでいた。
それらをぶらっと冷やかしたあと、おばさんがやっているアクセサリー屋に目をつけた。
そこで、わりと気に入ったアクセサリーがあったので一つ買って、その後にこう切り出した。
『実は両替屋をさがしているんだ。
レートが良くて、安全な場所を知らないか』
そこのおばさんは、それならばいいところがあるといって、ある場所へ連れて行ってくれた。

5分ほどそのおばさんの後を歩き、商店街の一角の片隅の階段を上ったところに、その部屋はあった。
『ここなら、大丈夫』
そういうと、そのおばさんはとっとと、消えてしまった。

部屋のなかに入ると、数人の男たちの視線が一斉に私に注がれた。
中は薄暗い。
窓はあるが、黒いカーテンを閉め切って、その隙間から黄金色の光が線になって射し込んでいる。
白いタバコの煙が行き場を求めて漂っていた。
6人くらいの男たちが、タバコを吸ったり、新聞を読んだり、チェスをやったりしている。
そして正面の大きなテーブルの前に、スーツ姿の小柄の男が座っていた、どうやら彼がボスらしい。

私は、なにやら映画で見たマフィアのアジトみたいだなと思ったが、部屋まで入って引き返すわけにもいかず、
『両替をしたいんだ。
アメリカドルのキャッシュを持っている』
とボスに話しかけてみた。

ボスは、部下に一人に軽く合図を送ると、部下は電卓をもってきた。
その電卓を軽く叩いて、それを私の側に向けて見せてきた。
それには2200と書かれていた。
1ドル=2200ジンバブエ・ドルということだ。
そのレートは決して悪くはないと思われる。
しかしだめもとで、その電卓を叩き2500と打ってみた。
ボスは、話しにならないという表情をして、手を軽くゆすってあっちへ行けみたいなしぐさをした。
私はもう一度電卓を叩き、2400と打ってみた。
ボスは、
『いくら両替するんだ?』
ときいてきた。
私は30ドルしか両替するつもりはなく、そのことを伝えると、
『50ドル以上なら、2400でもいい。50ドル以下なら2300だ。
それがラストプライスだ』
正直、ここジンバブエの正確な相場はわからないが、悪いレートではない。
私はオーケーだと言った。
『30ドルたのむ』
私のその言葉で、部下の一人が金庫から札束を持ってきた。

私はその札束を受け取った。
両替の後は、必ず札の枚数を確認する。
両替の鉄則だし、それが闇であるならなおさらだ。
30USドルを1USドル=2300ジンバブエドルで両替すると、69000ジンバブエドル受け取ればいいことになる。
しかし現在500ジンバブエドルが最高紙幣ではあるが、それはまだ発行されて間がないのか、実際に流通している最高紙幣はまだ100ジンバブエドルである。
それはどういうことかというと、69000ジンバブエドルを受け取るということは、690枚の札を受け取るということになる。

まずそれらを数えるのに苦労した。
私は1枚1枚数えていると、
『ジンバブエで、札を数える奴なんかいない』
とボスが言っていた。
確かにそうだろう。
札束を何束あるか数えれば十分な気がする。
とはいうものの、私は数え始めてしまったので、なんとなく後にひけず、10分以上かけて、690枚を数えた。

そしてその後、それをどうやって持ち帰るかが、問題だった。
あいにく鞄も何ももっていない。
札の束を、マネーベルトに入るだけ入れて、残りはジーンズの前ポケットと後ろポケットと、さらにシャツの胸ポケットに押しこんだ。
100枚の札束が7つと、90枚の札束1つは、ようやく私の体に収まり、無事に両替は終わった。
たった30USドルの両替でこれなのだから、100USドル両替するには、何か入れ物がないと持って帰れないだろう。
そういえば、私の前に、年配の女性が両替していたが、あらかじめスポーツバッグを持参していて、その中に札束を放り込んでいたっけ。

ちなみに1週間のハラレ滞在中に、物価も上昇した。
いや正確にいうと、貨幣の価値が下がったので、それに合わせて物の値段を上げたというほうが正しい。
例えば1時間600ジンバブエドルだったインターネットは900ジンバブエドルになった。
よく飲んでいた喫茶店のカプチーノ、500ジンバブエドルが700に変わった。
レートも実際には両替していないが、1USドル=2400ジンバブエドルになったら
しい。

この国の貨幣価値はまだまだ下がり続けている。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

その向こう側へ

もうだいぶ長い間私は旅をしている。
香港から旅を始めたのは2002年の5月。
その14ヶ月後、私はアフリカにいた。
場所はマラウイというアフリカ中部の国のムカタベイという場所だ。

タンザニアからタンザニア・ザンビア鉄道に乗り、それを途中で降りて、バスでマラウイにやってきたのだ。
マラウイという国は、マラウイ湖という湖を取り囲むようにある国だ。
そのマラウイ湖ではスキューバ・ダイビングが盛んだった。

しかし、マラウイ湖には吸血住虫というのがいる。
それは蚊のように人間の血を吸い、そして体内に入るのか、あるいはマラリアのように卵を産み付けるのかはわからないが、内蔵をやられたりするらしい。
しかし、予防薬も売っていたが、詳しい病状や潜伏期間などがよくわからず、結局ダイビングはやらなかった。
吸血住虫にしても、そこでダイビングのインストラクターとして働いている人もいるわけだし、ある程度の予防はできるのだろう。
それに私の宿だって、そのシャワーの水は、湖の水をそのまま引っ張って使っていたし、私自身、湖のなかで洗濯したいたわけで、やられてしまうときはやられるのだ。

だから吸血住虫がこわくてダイビングをやらなかったというよりは、エジプトのダハブでダイビングのライセンスを取ったものの、それほど体質的には合っていないとわかり、そこまでやりたいというわけではなかったのだろう。

そのムカタベイは小さな村で、食堂や商店が少なく食事には苦労したが、久しぶりに携帯コンロで食事をつくったりした。
村を歩くと、バオバブという木がある。
それは悪魔が根っこから引き抜いて、逆さにして植えた木であるという言い伝えを持つ。
太い幹から、確かに根っこが広がるように、横に広く枝が広がっている。
私にとってその木は、イメージしていたアフリカそのものである。

その木を横目に村を歩くと、子供たちが遊んでいたり、女たちがトウモロコシを挽いて粉状にしたりと働いている。
その粉はウガリという、この辺りの主食になる。
それは非常に淡白で蒸しパンみたいな食感だ。

そんなふうにとくにやることもなく、そこで過ごしていた。
ぶらりと村を歩いて、写真を撮り、飯を食い、宿にもどって湖を見ながら、ビールを飲み、タバコを吸う。
それは日本では考えられないような、優雅な時間の使い方だ。

しかし、そういう時間の流れのなかに私は1年以上身をおいてしまった。
今になって、決まった時間に起きて、やるべき仕事があり、それをやることで認められ、そして期待もされるというのは、幸せなことだと、身勝手ながら思う。
それをやっているときは、案外それほど充実しているとは気付かず、そういう生活の嫌なところばかり見えてしまうものだ。

目的地の喜望峰はもう目の前である。
最短ルートを取って、どこも観光せずに直行すれば1週間とかからない距離まで来ていた。
かつてアジアにいた頃は、世界地図を広げる度に、喜望峰はあまりに遠いことを再確認し、本当にそんなところまで陸路で行けるのか不安になった。
中東にいた頃は、未知なるアフリカに入ることが怖かった。
なにせ、情報が少なすぎた。
病気もそうだが、治安の問題も相当恐れていた。
私がアジアや中東で会った旅行者で、アフリカに行ったことのある人は、その誰もが強盗に遭っていたのだ。
私も必ず1回は強盗に遭うと覚悟していたし、そうならないための対策も、一応はやっていた。

だが実際に来てみると、アジアに比べれば確かに旅行はしにくいが、情報を集めならば注意深く旅を続ければ、案外と旅はできるものだと思った。
交通のことも心配していたが、かなりバスが走っているし、バスのないところはトラックが走っている。
テントをかついで歩くはめになる場所もあるだろうと予想していたが、そういう場所はなかった。

喜望峰まで、陸路で確実に行けるという場所まで来ると、その後のことが頭をよぎるのは当然だろう。
最初、喜望峰の後、南米に行くことを考えていた。
金はまだあるからだ。
しかし、南米に行ったことのある人に聞くと、あそこは酒と女と音楽と、さらに加えるならばドラッグの好きな奴が行くと、最高な場所らしい。
そのどれも、すごく好きだ、というわけではない。

ドラッグはたまに貰ったガンジャをやる程度だし、女にいたっては、買うことはまずない。
別にそれを買う人のことをとやかく言う気はないし、私だって聖人君子というわけではない。
それに病気が怖いという理由で買わないわけではないし、売春婦に同情こそすれ、軽蔑することもない。
ただ、私が買わないのは、なんとなく嫌なだけだ。

とくかく南米は、私にとってそれほど合っているとは思えなかった。
もちろん、南米の魅力は、酒や女だけではない。
ペルーのマチュピチュは見たいと思っているし、イースター島なんかも行ってみたいとは思う。
しかし、喜望峰から、ブラジルか、アルゼンチンあたりに入って、そこから南米を縦断するような気力はなかった。
南米は交通が整っていて、移動は比較的楽だとは聞いていたが、今の私にはきっとできないだろう。
かといって、行きたい所だけを飛行機を使い、ピンポイントで回るという旅も、したいとは思わなかった。

きっと喜望峰のあとは、どこかを経由はするだろうが、日本に帰るだろう。
しかし、日本に帰った後に、何をしようかということになる。
果たしてこの不景気で、仕事はあるのだろうか。
私は30歳で、けして若いわけでない。
もちろん選ばなければ仕事はあるだろう。
しかし、納得のいく仕事で、納得のいく待遇の仕事があるのだろうか。
あったとして、雇ってもらえるか。
そして、以前のように、決められた時間に毎日起きて、組織のなかで働くということができるのだろうか。
そんなことを考えると不安になってくる。

その不安からなのか、際限なく旅を続ける人もいる。
それはもう、旅の目的が、どこかに行ったり、何かを見たりするということではなく、ひたすら節約し、一日も長く旅をつづけることになってしまう。
そして、日本に帰っても、好きでもない仕事を金のためだけにやり、また旅に出る人も多い。
それを悪い事とは思わないが、少なくとも私はそれをしたくはない。
仮に私が今、これから30年は旅をできるお金を持っていたとして、終わることのない旅を続けたとしても、それはひどくつまらない旅のように思える。
終わりのない旅は、つまり永遠にさまよい歩くことは、拷問に等しいのではないか。

私にとっての旅は、喜望峰で完結しなければならないとは思っている。

長く旅をしていると、その間常に充実し、毎日が新鮮な体験ばかりだ、ということはない。
無気力になる時期もあるし、一生涯心の残るような体験をするときもある。
充実した時期と、そうでない時期の繰り返しだ。
しかし帰国してからも、少しばかりはそんな旅の充実感と同じような、新鮮な日々を送りたいと思う。
もちろん、それが毎日続くわけはないだろう。
しかし、そういう毎日のなかにも、少しばかりは生きていることの実感できる日々があれば、上出来だと思う。

私は早く自分の旅に決着をつけたいと思い始めていた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

世界で一番美しい海

世界で一番美しい海とはどこであろうか。
そんなものは個人的な主観によって違うなんてことはわかっている。
それは実に曖昧で、個人的な趣味というのもあるし、さらにそこでの体験が楽しかったとすれば、おのずとそこの海の印象もまた良くなるものだ。
私的な意見を言わせてもらえば、今まで訪れた場所のなかでは、沖縄の石垣島や西表島の海がとても印象に残っている。
こんなにも、深い青と、エメラルドグリーンの鮮やかな海が存在するものなのかと驚いた。

そしてここ、タンザニアにも美しい海が存在する。
ある旅行者は、
『あれほどきれいな海岸線は見たことがない』
といっていた。
それはザンジバル島にある。

ザンジバルは今ではタンザニアの一つの地域であるが、1964年まではザンジバル共和国という主権国家だった。
そのためか、あるいは観光客への記念のためか、島にはイミグレーションがあり、ザンジバルの入国スタンプを押してくれる。
ダルエス・サラ?ムからフェリーに乗に2時間も揺られると着くが、他に貨物なども乗せるため、実際には半日はかかる。

今では東アフリカの代表的な観光地でもあるザンジバル島は、ケニアのラム島などと同じくムスリムの島だ。
ストーンタウンと呼ばれる一帯は、その名の通り、石でできた街であり、路地は入り組みすぐに迷子になる。
しかし、たまには迷子になるのもまた楽しい。
幼い女の子は黒い布をすっぽりとかぶり、カメラを向けると手で顔を隠す仕草がかわいい。
しかし逃げ出すわけではなく、距離をとって私の様子を伺っている。
好奇心には勝てないようだ。

そんなストーンタウンの街並みには魅了されたが、ここは大観光地だけあり、トラブルは絶えなった。
宿の客引きがうざったい。
インド並だ。
とにかく久しぶりにこの手の客引きにあい疲れる場所だった。

とにかく私は宿を決めて、そこから日帰りでパジェビーチというところまで足の延ばした。
そこには、日本人女性の経営する宿があり、そこに行くと、
『泊まらなくてもいいから、ゆっくりしていって』
と歓迎してくれ、私はビーチソファーを借りることにした。

そこから見える海岸線は全く絵になった。
引き潮のときは、真っ白い砂が沖の向かってずっと続いている。
紺碧の空と、白い砂浜というのはこういうのを言うのだろう。
そこで暮らす人たちは、引き潮の間にその砂の中から、貝を捕っているようだった。

そして役目を終えた木造の小さな船が、砂の上で朽ちようとしている。

葉祥明という絵本作家がいる。
北鎌倉に美術館をもつ作家だ。
彼の書く絵のなかに、青い海と白い砂に、木の船はポツンと打ち捨てられているものがある。
まったくそれと同じ世界だった。

私もサンダルで、白い砂の上を、どんどんと沖へと進んで写真を撮った。
2,3キロはそれが続いているように思えた。
夕方になり、潮が満ちてくると、今まで白い砂だった部分がみるみると青い海に変わっていく。
さっきまで歩いていた場所が、もう水にかわり、海は宿の目の前まで来ている。

私の過ちは、そこに泊る手配をしなかったことだ。
ビーチの宿は安くても1泊30ドルくらいするのだが、それを惜しんでしまった。
そのことは後悔した。

私が世界で一番美しい海を挙げるとしたら、ここを挙げるかもしれない。
そして、もしそこに泊っていたら、私は世界で一番美しい海に沈む、世界で一番美しい夕日を見ることができたかもしれない。
そのことを今でも後悔している。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

チェンジ・マネー・トリック

私はルワンダからタンザニアに入り、キリマンジャロの麓の街であるモシに立ち寄り、ダルエスサラームまで駒を進めた。
キリマンジャロは標高5895mのアフリカ大陸最高峰である。
以前はそこに登ってみたいと思っていたが、はやはりキリマンジャロに登ることはなかった。
ネパールあたりのトレッキングとちがって、キリマンジャロの登頂にはけっこうな金がかかる。
入園料とガイド料がかかり、3泊4日で400ドルくらいは取られる。
しかも一人での登山は禁止されている。
かならずガイドを雇わなければならない。
いや、別に金がかかるのはいい。
それだけの魅力があれば、お金は惜しまないことにしている。
登った人に聞くと、それはいわゆる登山だったのでやめた。
私はトレッキングの方が好きなのだ。
つまりネパールのように、山間を歩いて、そこに暮らす人たちの生活を見ながら歩く、そういうのが好きなのだが、キリマンジャロには、人は暮らしてなく、また山頂を極めるのことが目的なので、ただひたすらに登るというのが、ここのスタイルなのだ。

それで麓の街から、モヤがかかったキリマンジャロを見ただけで、満足することにして、すぐにダルエスサラ?ムへと来たのだった。
そこで事件は起きた。

私はそのダルエスで、まずは両替をやらなければならなかった。
アフリカではトラベラーズチェックが使える国というのが限られているし、使えたとしても手数料が高いところが多い。
アジアであれば、ほとんどそういうことがなく、安全面からいってもトラベラーズチェックが一番だという気がするが、アフリカではそれほど使えないのだ。

それで必然的にドルキャッシュを持ち歩き、それを現地通過に変えるということになる。
わたしは、そのためにエジプトである程度のドルキャッシを用意し、シティバンクのカードが使えるところではそれを使い、その他はドルキャッシュを使っていた。

このダルエスではちゃんと銀行もあり、トラベラーズチェックも使えたが、やはり手数料がけっこうするので、ドルキャッシュを両替することにした。
銀行を何件かまわり、ドルキャッシュのレートが良くないと思っていると、路上でドルチェンジの声がかかった。
いってみれば闇両替である。
レートは銀行の1割くらいはいい。
しかし、最初は警戒して、レートを聞くだけでやめておいたが、けっこう頻繁に闇両替の声がかかった。

『もしかしたら、ここでは闇両替が一般的なのかもしれない』
と思ってしまったのが、私の間違いだった。
闇両替のレートが銀行と比べあまりに良すぎると逆に警戒したのだろうが、銀行が1ドル1020タンザニア・シリングに対し、闇両替が1ドル1100シリングと、微妙ではるが、やはりある程度の金額を両替すると、お得感がある。
1ドルにつきチャイ1杯くらいは得をする。

そして何人かの闇両替屋のうち、もっとも信頼できそうな顔立ちの男を一人選んで、やることにした。
少し小太りで背は低く、オレンジ色のシャツを着た中年だ。
まず50ドル両替したいことを告げると、50ドル札を見せてくれという。
私は彼にそれを差し出し、彼はそれをチェックして、一度返してもらった。
そして彼は懐から札束を取り出して、数を数える。

50ドルの両替なので、55,000タンザニア・シリングになるはずである。
そして彼は5,000シリングの紙幣を11枚数え私に渡した。
私はそれを1枚1枚数え、これでOKだと言って、USの50ドル札を彼に渡した。

今思えばこれで終わりにすればよかった。
彼は、私のもっている11枚のタンザニア・シリングを見て、
『輪ゴムをかけてやろう』
といって手を出した。
たしかに11枚はかさばるほどではないが、輪ゴムでまとめてあってもいい。
私は何も躊躇することなく、金を手渡した。
そして彼はそれを四つ折にし、輪ゴムをかけてくれた。
その様子を私はずっと見ていた。
そして再び金を受け取ると、
『警察に見つかったらヤバイ。
早く行ってくれ』
と彼は言い、私たちは別れた。

その日の夕方、タンザニア・ザンビア鉄道の切符を買いに駅に行き、両替したばかりのタンザニア・シリングで払おうとして、その輪ゴムをほどいて私は愕然とした。
金が足りないのだ。
本来ならばそこには5000タンザニア・シリング札が11枚あるはずだった。
しかし表と裏の札だけが5000タンザニア・シリング札で内側の9枚は500タンザニア・シリング札だった。
私は最初何が起きたのか理解できず、何度も数え直し、計算しなおした。
しかし、どう考えても5000タンザニア・シリング札が11枚あるべきところ、
5000タンザニア・シリング札は2枚だけで、あとは500タンザニア・シリング札なのだ。

そして考えた結果、闇両替の男が輪ゴムをかけたときに、あらかじめ用意していた別のものと、すり替えられたとしか、考えられなかった。
私はもう1年以上も旅をしている。
といっても別に旅慣れているとも思っていない。
両替したときにも、かなり念入りにチェックしたはずだった。
それでもやられてしまったわけだ。
損した金額は約40USドルだ。
これはちょっとした大金だ。

そのときには非常に腹がたち、両替したその道へと引き返し、その辺りの人にその両替の男のことを聞きまわり、彼を探した。
もちろん金を取り返すためである。
しかし見つかるわけはなかった。
ただ、今思うと、単に、彼のほうが一枚上手だっただけの話であり、それもまた旅を彩るシーンの一つとして、思い出すことができる。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ジェノサイド

有史以来、いやその以前からであろうが、人間は時折、信じられないような虐殺というものやってきた。
ナチスドイツがそうであり、記憶に新しいところでは、カンボジアのポルポトによるそれである。

そしてこのルワンダでもそれが起きたのである。
しかも歴史の教科書を開くと載っている昔の話ではなく、まさにこの現代に起きた。

1994年の春から約100日間で80万人が殺されたと言われている。
それは国民の10人に1人という驚くべき数字である。
それはユダヤ人虐殺の3倍にあたるらしい。
もちろん、数が少なければいいというわけではないが、その大規模な虐殺が、メディアの発達した現代で起きたことに、驚きを感じる。

そのきっかけとなったのは、フツ族である、ルワンダ大統領ハビャリマナを乗せた飛行機が、何者かに撃墜された。
そしてフツ族がツチ族を大量に虐殺するという事態が起きたのである。
もちろん、そのような大量虐殺には何かしらの背景がないと起こりえない。
それは、ツチ族とフツ族の民族的な対立といえるが、そう簡単なものではないらしい。
対立というよりは、民族差別的なものがあったと聞いたことがある。

私はルワンダからウガンダへと南下し、その虐殺記念館というところに足を運んだ。

その場所は首都キガリから半日で行ける、緑の多い山間にある。
地名でいえばキコンゴロという街の近くのムランビという場所だ。

記念館はかつて、学校の教室だったという。
一階建ての建物が何棟も並び、その全てに死体が安置されている。
係員に案内され教室に入ると、木製の台の上に死体がいくつも無造作に並べられている。
衣類はほとんど身につけてなく、乾燥して骨と皮だけになり、そして白く変色している。
匂いは鼻をつく。
その匂いを説明はできないが、とても嫌な匂いだ。
人間は腐ると悪臭を放つというが、それと同じものかもしれない。
今は、死体は乾燥しているが、以前はもっとひどい匂いがしたのだろう。

死体は老人から女性、幼児まである。
虐殺とはそういうものだろう。
ここだけで27,000の死体があると説明された。
私は記録のために何枚か写真をとった。

係員の案内されるままに二つか三つの教室を見学したが、そこで終わりにした。
とても全ての教室見てまわるほどの気力はない。
そして施設維持のために、いくらかのお金を寄付して、そこを出ることにした。

約100日間で80万という数字は、単純に計算して1日に8000人が殺されたことになる。
その数だけを考えると、まさに手当たり次第ということになる。
もちろん現在でもその民族的な対立は解決したわけではなく、難民の問題などもある。

マスコミの報道は、事件がおきると、一時的には取り上げるが、その冷め方も早い。

イラクの報道などはアメリカが大きく関わっているため、世界的にも注目されている。
しかし、継続的な報道がなされないだけで、紛争というのは、このアフリカにはあきれるくらい存在する。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

森の人

このエッセイで何度か書いたことがあるが、私の旅にはカメラが欠かせない。
基本的にはいつもカメラを持ち歩いている。
旅のルートを決めるのにも、面白い写真が撮れそうだからその場所へ行く、ということもあるし、逆に写真は禁止されているから行かなかったという場所さえある。
他の人から見れば理解できない部分もあるだろうが、私にはそういうところがある。

さて、ケニアの後、喜望峰までのメインルートはそのまま真っ直ぐに南下しタンザニアと入るルートである。
しかし私はケニアの西、ウガンダへと行くことにした。
その理由は写真である。
コンゴ、ウガンダ周辺にはピグミー族が暮らしているらしい。
コンゴには治安の問題があり、ビザが下りるかどうか不安定な状態で、入れたとしても入域できない場所が多い。
しかしウガンダであれば、比較的簡単に、そのピグミー族に会えるらしい。
ピグミー族の写真を撮る。
それがウガンダへ行く理由である。
私はどちらかというと、風景より人物の写真が好きだ。
なかでも宗教的な匂いのする街に暮らす人々や、少数民族には興味がある。

ピグミー族については、どこに行けば会えるかということは、もちろん調べていたが、民族的なものについては何も知らなかった。
背が一般よりもだいぶ小さく、そして森を住みかにしている、ということくらいしか知らない。
『森の人』と呼ばれる彼らである。
その響きだけで、十分に写真を撮りに行く価値はあると思った。

ケニアのナイロビからウガンダの首都であるカンパラまでは、直通の夜行バスが走っていている。
私はケニアを後にして、ウガンダのカンパラを目指した。
カンパラの後はバスを乗り換えて、ピグミーの暮らフォート・ポータルというところへやってきた。
カンパラも首都にしてはずいぶん小さいが、フォーと・ポータルというところまで来ると、いわゆる田舎街という感じである。
そしてそこを拠点に日帰りでピグミーに会いに行くのである。

ウガンダの目的はピグミー族だけだったので、フォート・ポータルに着いた翌日、私はさっそく彼らを訪ねてみた。

彼らはフォート・ポータルから車で3時間の、セムリキバレー国立公園のなかに住んでいる。
そこまでの移動手段は乗合トラックだった。
トラックといっても、トヨタのランクルピックアップである。
そこに荷台に乗るわけだが、未舗装の道路でスピード出すので、はっきりいってジェットコースターよりも怖かった。
いくつかの山を抜け、セムリキバレーに着くと、そこには小さな村がある。
ここには一般の村人が暮らしていて、牧畜や農耕で生計をたてているようだった。

まずはそこの公園事務所へと行き、ピグミーに会う手配をしてもらう。
本来、そのまま勝手に人に場所を聞きながら歩いていけば、すぐにピグミーに会えるらしいが、ピックアップが公園事務所の目の前で私を降ろしてくれたので、それはで
きなかったし、なによりに国立公園の入園料をちょろまかすことになるので、あまり褒められた行為でもない。

事務所にはいくつかのツアーが用意されていて、トレッキングなんかもあった。
しかし1999年にイギリスの観光客8人が反政府ゲリラの誘拐され殺害されるという事件が、ウガンダ西部、つまりここからそう遠くないところであったらしく、ほとんど観光客は来ないようだった。
私が事務所の職員にピグミーに会いたいと言うと、まず公園の入園料10USドルと、ガイド量として、5000ウガンダシリング(約2,5ドル)かかるということだった。
これらは料金表にて書いてある正当な料金であるので、私は素直に払った。
そして一つ確認した。
ピグミーの写真を撮ったとき、彼らにその料金を請求されるのかどうかだ。
すると職員はそのお金は国立公園の入園料に入っているから、これ以上お金を払うことはないと言った。

そして職員がピグミーのところへと案内してくれた。
森の中を歩くものだと思っていたが、道にそって5分もあるけば着いてしまった。
これなら確かに公園事務局を通さなくても一人でこれそうだ。

『彼らがピグミーだ。そして彼が村長』
と職員が言い、紹介された男を見て私はあまりに驚いて、唖然とした。

その男の年齢は50歳くらいに見えた。
そして背が小さい。
150センチくらいであろうか。
やはり、民族的には背が低いのだ。
そして彼が着ている服装は、アルファベットのプリントの入ったTシャツにジーンズだ。
かれのまわりにいる大人たちや、子供もおなじような格好だ。
汚れてはいるが、基本的には同じような格好をしている。
アメリカのロックミューシャンのTシャツを着ている若者もいた。
女性は一般のアフリカ人と同じくスカートである。

暮らしぶりを説明してもらうと、昔は狩猟採集生活が主だったが、今はトウモロコシなどの農耕をやっているらしい。
猿を狩って食べるという習慣も今はほとんどない。
家は、以前は藁でつくったテントのような家だったが、今は土か木を張り合わせたような家に住んでいる。
自転車を持っている人もいた。
この分じゃ、ラジカセくらいな持っている人もいるだろう。

正直、期待は大きくはずれ、想像と大きくかけはなれていた。
『彼らがピグミーだ』
という説明を受けないかぎり、絶対にそのことに気付かない。
森の中をさっそうと歩くピグミー族というのは、ここにはいなかった。
しかしそのことをあれこれいう資格は私たちにはない。
この現代で伝統の文化、習慣、暮らしを守ることは、やはり相当に難しい。
日本人だってマゲと日本刀を捨て、今に至るのだから。

でもせっかく来たのだからと思い、写真を撮らせてほしいと申しでた。
記念写真みたいなものになってしまうが、それもまたいいだろうと思ったのだ。
そのことを、職員が村長に伝えてくれたが、村長からは驚くべき答えが返ってきた。

『1枚につき10,000ウガンダシリング(5USドル)だ』というのだ。
これにはあきれて物も言えなかった。

まず、国立公園の入園料に写真代は入っているはずだ。
仮にそれをさしひいても、やはり納得がいかない。
もし彼らが、観光で収入を得るために、民族的な衣装をつけ、伝統的な暮らしをしているのであれば、写真を撮られることで、お金を請求するのであればまだ納得もいく。
それにしたって、写真1枚につき5ドルという金額はどうかと思うが。

タイの首長族やケニアのマサイ族のなかには観光をその生業に選んだ人たちもいる。

彼らはきちんと定額の入村料を決め、そして英語の話せるものが、村の暮らしや、伝承など、独自の文化について説明してくれる。
写真を撮ってもそれ以上のお金を取られることはない。
首長族にいたっては、
『村の子供たちには教育上、お金や物をあげないでください。
もしそういった気持ちがあるのなら、学校や病院をたてるための費用を寄付してください』
と説明された。

ここにはそういうものはまったくない。
肖像権というものがあるので、写真を撮られたくないというのならわかる。
しかし彼らは、写真は撮ってくれ、そしてお金を落としていってくれというわけだ。

つまりはピグミー族として、紹介するべき文化や伝統はなくなってしまったが、とにかく金だけはおいていってくれということになる。

私は相当に腹がたち、村長に文句を言ったら、金額が3分の1になった。
しかし、私にとっては金が問題ではないので、写真は1枚も撮らなかった。
すると村長は、
『こないだ来たイギリス人は20ドルくれたよ。
やっぱりイギリスはいいな』
と言う。
私はますます腹がたった。
『金を持ってくる奴が好きなのか。
そうだろうよ、俺は金がないからな。
だったら一生イギリスに媚ながら生きていけばいいさ』
と思わず強い口調で言ってしまった。

世界には少数民族と呼ばれる人たちが多数いる。
彼らのなかには、観光を主な収入として暮らす人たちもいる。
そういうところには、やはり観光客が多く行くが、なかには、
『あそこの民族は観光化しているよ。
本物じゃないな』
などと、無責任なことを言う旅行者だっているが、私はそうは思わない。

民族というものは、もともと民族単位で暮らしていたのだ。
それが第二次大戦後大きく国境がかわり、あるいは新たに国境がひかれる。
そして知らぬ間にどこかの国に属すことになる。
いままではのんびりと民族単位の暮らしが、ある日突然、あなた○○国の国民になりましたよ、ということになる。
そして流通は大きく変わり、その国の貨幣がないとなにも買えない状況になり、大きな街へ行けば聞いたこともない国の製品が出回っている。
そんなふうに大きく世界が変貌した現代で、伝統や文化を守っていくということはどんなに難しいものかは、自分の国の歴史を少し振り返っただけでも容易に想像がつく。
そんななか、安定した観光収入の道を選ぶことは、何も恥じることではないと思っている。
それを選ぶことで、子供らは学校へ行き教育を受けることができ、生活が安定し、まして自分たちの生活、文化、習慣、伝統を守れるのなら、なおさらだ。

一方、伝統的な生活を捨て、街へ出稼ぎに行って、そういう昔の生活スタイルをまるっきり捨ててしまった民族だって多くいたはずだ。
大雑把に言えば、日本だって、欧米列強に負けない近代国家になるために、いろいろな伝統を捨てた。
それはそれでいいと思っている。

計画的な援助というものは必要だと思う。
しかし、何もせずに、ピグミーだといういわば中身の伴わないブランド名だけで、あわよくば収入を得ようとする彼らはどうなのだろうか。
そのイギリス人のように、ただ気まぐれに金を渡す人がいるから、ピグミーも、外国人は金をくれると思ってしまったのだとは思うが、それはとても悲しいことだ。

森の中をさっそうと歩く、誇り高きピグミーは、まだコンゴにはいるのだろうか。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

海を渡った中国人

世界中を見渡すと、一つの国に一つの民族という例は、非常に少ない。
そういう国は、他にも存在するのだろうが、私が今まで訪れた国の全てが多民族国家だ。
もちろん日本だって、アイヌがいるわけだし、厳密にいうとそういうわけではないが、世界単位で考えるとやはり単一民族国家だ。
それは世界では稀である。

そして、日本人というのは日本にしかいない。
もちろん海外旅行や海外赴任などで行く人は多いだろう。
あるいは、渡米して国籍を取ったり、ヨーロッパに渡り活躍し、永住するという例は多いと思う。
私が言っているのはそうではない。
もっと大きな単位で、新天地を求め海外に渡り、移住して商売をし、コミュニティをつくり、日本人街をつくったという例は知らない
かつて明治時代にブラジルに移民したという日本人の話は聞いたことがあるが、それくらいだろうか。

例えば、このケニアにキユク、カレンジン、ルオ、マサイ、ツルカナ、サンプル、ツルカナなど代表的なものだけでもこれだけの民族がいる。
キユクというのは、ナイロビ周辺に住む人たちで、普通に観光旅行するとまず彼らに会うことになる。
ちなみにマサイというはあの有名なマサイ族であり、今での伝統的な暮らしてしている人たちが多い。

そしてここ東アフリカにはインド人も多くいる。
かつてインドがイギリスの植民地だった頃、東アフリカの鉄道建設の労働者として、インドから移住させられたのが始まりである。
最初は貧しかった彼らだが、世代を重ねるにつれ、次第に力をつけ、今では経済的に影響力を持っている。
よく商店や食堂のオーナーだったりする。
そのため、経済状態が悪くなり、暴動などが起きると、インド人というのは真っ先に狙われる。

話が変わるが、中国人というのは、世界中にいる民族だ。
華僑が有名であり、チャイナタウンは世界各地にある。
マレーシアやシンガポールなどは中華系が多いし力を持っている。
中国人というは昔から商売上手で、世界に目を向けていたのかもしれない。

そして400年前のアフリカにも中国人は来ていたのだ。
日本でいえば江戸時代の初期である。
そんな時代にここへやってきた中国人が確かにいたのである。
なぜそんなことを知っているかといえば、私がその中国人になったからである。

私はケニアに東側に位置する、ラム島という小さな島に来ていた。
そこへ来たのは、大して理由はなく、単にゆっくりできそうだったからだ。
島には車というものがない。
役所関係のジープが一台あるだけで、車を持ち入れることは禁止されている。
もっとも持ち入れたとしても、車が通れるだけの道は海岸線くらいだ。
海岸から内側に入ると、道というよりは、もう路地しかない。
そして、そこを通るのはロバである。
ここではロバが交通手段であり、人も乗るし、荷物を運ばせたりする。
建物は石でつくってあり、島全体が歴史の発展から取り残されたような雰囲気をもっている。
ここに住む人は皆ムスリムであり、コーランが鳴り響く、小さな島なのだ。

アフリカというと未開というイメージがついてまわるが、決してそんなことはない。

確かに上下水道や電気などの公共的なインフラから考えると未発達ではあるが、伝統的な暮らしをしている人たちの方が遥かに少ない。
それに、ナイロビなどはビルが立ち並ぶちょっとした都会なのだ。
そんななかで、このラム島は、島全体に独特の、違った時間の流れを感じさせてくれる。

そのとき私はいつものように散歩していた。
実際こういう場所では散歩しかやることがなく、また散歩することが最も有効な時間の使い方だ。
季節がよければ海で泳ぐこともできるが、あいにく雨が多い。
ナイロビあたりはちょうど大乾季に入った頃だが、東側はまだ雨が多い。
降水量の統計を見ると、内陸部と乾季の時期が大きくずれているようだ。
ナイロビからラム島へ来ると途中にも、雨で道路が水没していて、手漕ぎボートで道を渡るという場所もあったくらいだ。

ちなみにアフリカはとにかく暑いと思っている人もいるかもしれないが、それは大きな勘違いだ。
5月のスーダンは確かに暑かった。
これはもう体温と同じくらいに暑く、何もやる気が起きない。
しかしエチオピアのアジスアベバは一年中秋とよばれ、ケニアのナイロビは一年中春と言われるくらいである。
つまり過ごしやすいのだ。
それはアジスアベバの標高は2400Mあり、ナイロビは1661Mもあるからである。
確かにアフリカは暑く、ケニアに至っては赤道直下であるが、気温というのは、地形によって大きく異なるのである。

とにかくラム島では泳ぐことはできずに、雨をさけて散歩するのが最大の観光なのだ。
そしていつものように海岸線を歩いているとき、ある白人女性が声をかけてきた。

彼女の名前はルーシーといった。
28歳くらいであろうか。
少しぽっちゃりしている。
オランダ人だが、イギリス国籍だと言っていた。
そして、イギリスのテレビ局でドュメンタリー製作の仕事をしていて、その仕事でここに来ているとのことだった。
彼らの追っているものは中国人だった。
今から400年前にここへ海を越えて渡ってきた中国人がいるらしい。
そのドキュメンタリーをつくっていて、再現VTRを撮るため、中国人の役をやってくれなかと言われた。
つまりはテレビ出演である。
それにしても今回の旅では、テレビ出演に縁がある。
モンゴルに続き2回目だ。
私は日本だし、髪の毛も少し色を入れているし、中国語も喋れないと言ったが、セリフああるわけではなく、衣装があって帽子をかぶるから問題ないと言われた。
要は見た目が東洋人であればいいらしい。
撮影は半日で終わるし、ギャラも出すと言われ私は引き受けた。
なにより、最後に彼女が、
『あなたは素的な男性だわ。
この役にぴったり』
と言われたで引き受けてしまった。
私の英語力が確かなら彼女は確かにそう言った。

撮影は明日だというので、その日は前金の代わりなのか、ハイネケンを好きなだけ飲ませてくれた。
それにしても、ラム島で、東洋人が見つからなかったらどうするつもりだったのだろうか。
しかし衣装まで用意してあるということは、やはり東洋人が必要だったわけであり、最初はちゃんと決められた人がいて、土壇場でキャンセルになったのだろうか。
まあ、私としては面白そうだし、ビールも飲め、さらに少しではあるがお金ももらえるので文句はなかった。

次の日、指定された場所へ行くと、すでにルーシーは来ていた。
それに他のスタッフも7名ほどいただろうか。
テレビ関係のスタッフというのは、どこの国でも良く似ている。
とにかくみんなラフなかっこうであり、リーダー格らしき人物はサングラスして、キャップをかぶっている。
現地の通訳もいた。
少し話しをすると、普通の仕事よりもかなりギャラがいいと言って、喜んでいた。

そして簡単な説明のあと、私は着替えさせられることになった。
スタッフ泊まっている部屋を使って着替えたが、そのホテルにはプールもついていて、羨ましい限りだ。
アフリカであれ、ちゃんとお金を出せば、それなりの設備とサービスのあるホテルがちゃんとある。

渡された衣装はいわゆる我々のイメージする中国のそれだ。
帽子があり、袖が長く、両腕を前にもってくると両腕がすっぽりかくれるもので、おもわず謝謝(シェイシェイ)の一つくらい言いたくなる。
着替えると撮影の指示あり、さっそく撮影が始まった。

まず最初のシーンは、はるばる海を越えてきた中国人が、ラム島の役所の中に入るところだ。
建物は博物館が使われた。
その博物館は、展示物はともかく、建物そのものは歴史の重みを感じさせるような古めかしいものだったからだ。
建物の入り口で、ラム島側の役人が重い鉄の扉を開けるので、そこから中に入り、奥までゆっくりと歩くというものだった。
このたった数秒のシーンに案外てこずってしまった。

監督らしい人から、何回も指示を受け、やりなおすはめになった。
『もっと、ゆっくりあるいて』
くらいなら簡単だ。
『建物のなかに入ったら、ゆっくり周囲を見ながら歩いて、そして少し驚く表情をして。
つまりは、建物内部の装飾に感心するわけだ』
なんて言われても、実際建物の内部にはなにもないから、これはもう立派な演技である。
このシーンは3回目くらいでOKが出た。

その次に2階に上がり、テラスから海を見ていると、船を見つけ、指を指す、というシーンだ。
こっちの方が苦労した。
『海を見るときは、もっと遠くを見るような・・・
そう、祖国を懐かしむような感じ』
と言われてもどうもピンとこない。
そして指を指す動作にしても、角度がどうとか、動きの速さがどうとかいろいろと言われた。
もちろん彼らにしても、素人に玄人並の演技を求めるわけではないから、そこそこのところでOKが出て、撮影は終了となった。

もっと簡単なものだと思っていたので、意外ではあったが、なかなか新鮮な体験だった。
ギャラは15USDだった
それを安いとは思わない。
全く収入のない私にとってはちょっとしたお小遣いだ。

それにしても、ひたすら陸を越えてきた日本人が、はるばる海を渡った中国人を演じることになるとは、これも何かの縁かもしれない。
その後、その中国人は祖国に帰れたのだろうか。
あるいはラム島に住み続けたのだろうか。
そして、彼のあとに中国との交易がはじまったのだろうか。
それは調べてみないことにはわからない。

当時、海を越えるということは、つまりは死を覚悟することだったのだろう。
私は旅で命を落とすことになっても悔いはないと思っているが、死を覚悟しているわけではない。
少なくとも旅の危険性というのは、400年前とは比べるべくもない。
その気になれば数日後には日本に帰れる現代にいる。
時代は流れ、世界は狭くなったのだろうか。

鉄郎の軌跡
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ウガンダ日本大使館職員募集

私は今まで海外で働きたいと思ったことはない。
まず語学が苦手だからかもしれない。
英語はもちろん得意ではない。
他の言語に至っては全くだめだ。
学生のとき、第二外国語に中国語を選択していたが、実際に中国に行ってみて、私はニイハオとシェイシェイ以外の中国語を知らなかったことは、改めて学生時代の、私の怠慢を自分自身で思い知らされた。
そういう理由以外にも、私はやはり日本で働きたいという気持ちが強い。
以前は、国際協力事業団の仕事や、海外青年協力隊に憧れていた時期もあったが、語学面でとうて務まりそうにない。

そんな私ではあるが、一度だけ心が動いたことがあった。
それはケニアの日本大使館に行ったときのことだ。

以前、トルコにいたとき、大量の80本ばかりのフィルムとテントを、ケニアの日本大使館宛に送っていて、それを受け取りに行ったのだ。
フィルムはもちろん旅で写真を撮るためであり、それを持ち歩くのが面倒なのであらかじめ送っておいた。
テントもトルコからケニアまでは使いそうにないので、送っておいたのだ。

本来アフリカを旅する場合、まず新しい国に入国したら、日本大使館に顔を出し、その国の治安状況と衛生状況の情報を得るのが良しとされているが、そういう真面目な旅行者はあまりいない。
結局はトラブルがあった後に行くことになる。

私もその荷物を受け取る用事がなければ行かなかった。
そこで荷物の手続きをしていたわけだが、その掲示板に、
『ウガンダ日本大使館職員募集。国籍問わず、英語、日本語の堪能な人』とあった。
つまりは現地採用というやつだ。
大使館は、どこもたいてい何人か現地のスタッフを雇っている。
しかし国籍を問わないということは、もちろん日本人でもいいのだろう。
しかも英語はともかく、日本語はもちろん堪能である。

そこに給料などの待遇面は書かれていなかったが、大使館職員であればそれなりには貰えるはずだ。
仕事内容は、おそらく雑務だろう。
重要な仕事は、日本から来る官僚の仕事だ。
それでも、
『けっこう面白そうだ』
と思った。
日本にいれば、まず国家公務員なんかに縁はないからだ。
海外に行って、日本国の国家公務員になったなんて、なんだか笑える話だ。
もちろん、日本の官僚と違って、エリートコースというわけにはもちろんいかないだろうが。

かつての私には旅の期限というがあったが、今はそれがない。
金の続く限り旅はできるのだ。
ここらで一つの場所にとどまり、仕事をするのも悪くはない。

ウガンダはケニアと同じスワヒリ語が使われている。
スワヒリ語を学べば、その後で、ケニアで日本人相手のサファリツアーのガイドくらいはできるかもしれない。

ケニアというのは、アフリカの中では観光のインフラも整っている、観光大国だ。
なにより野生動物を見るサファリツアーは人気だ。
私自身、このサファリツアーというのは、本当に楽しいものだと思った。
ランドクルーザーなどで、国立公園をまわるわけだが、野生のライオンなどが、2、3メートルの距離で見ることができる。
キリン、象、チーターなどもたいていは見ることができるし、バッファローや、ゼブラ、白サイ、黒サイ、ガゼルなどあげればきりがない。
そして何よりすごいのは、野生のそれを見ることができるということだろう。
お金を出せば宿泊施設も整っているし、新婚旅行に行ってもけして後悔しない場所だろう。
今までの旅のなかで、純粋な観光として一番楽しかったのは、このサファリツアーかもしれない。
ケニアの治安ももう少しよくなれば、日本からの観光客ももっと増えるだろうし、その手の仕事だってあるはずだ。
などなど想像は勝手に膨らんだ。

もう少しその職員募集の話を、詳しく聞いてみようかとは、思ったが、やはりそれは実行には至らなかった。
私は喜望峰までの旅の途中なのだ。
それが終わった後であれば、働くのも悪くはないが、やはり今は旅を優先したい。

ちなみに、私がトルコから送った荷物は、日本大使館から中央郵便局に送られ、そこで預かっているからと言われ、そこへ行って見た。
すると、あろうことか、
『君が取りにこないから、もう日本に送り返してしまった』
と言いうではないか。
伝票を見てみると、2月の中旬に荷物がケニアの到着し、そして2ヶ月後の4月の中旬には日本に発送されている。
たった2ヶ月しか預かってくれなかったのだ。
通常、6ヶ月は預かってくれると聞いていたのに。
私は日本大使館に戻って、職員に文句を言って、なんとかしてくれと言った。
対応してくれたのは、25歳くらいの私服の日本人青年だ。
彼もきっと現地採用なのではないか。
日本からやってくる官僚はもちろんスーツで働いているからだ。
『ケニアはそういう決まりですからねぇ、あなたが取りにくるのが遅すぎたわけですし。それに日本に送ってしまったものはもうどうしようもないでしょう』
という答えだった。
彼の言うとおり、すでに発送してしまったものは、やはりどうにもならないだろうと思い、私もそれ以上つっかからなかった。

きっと、仮に私がウガンダ日本大使館職員になったとして、やる仕事といえば、目の前にいる彼と同じように、長期旅行者の苦情を受けたりすることなのかもしれない。

まあ、それはそれで悪くはないが。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。