浦江飯店

ウランバートルから北京へと引き返した私は、天津から神戸行きのフェリーに乗った。
友人の結婚式に出席するためである。
最初、結婚式に出席するかどうか迷ったが、今のところやはり日本が帰るべき場所なので、日本にいる友人を大切にしたかったのだ。
帰国に船を使ったことには大した理由はない。
単に、飛行機が苦手というのもあるが、「香港から南アフリカの喜望峰まで、陸路と海路で行く」という自分で決めたルールを守りたかっただけである。
そのため日本という国を通り道ととらえ、少し客観的に日本を見れるかもしれないと思ったが、やはりそれは無理だった。
日本語で話しができ、日本の友人に囲まれることが、心地よく感じられた。
やはり私は日本人なのだなと思う帰国だった。
一週間の帰国は、あっという間に過ぎ、再び大阪から上海行きのフェリーにのり、中国へと戻ってきた。

上海には有名な安宿がある。
浦江飯店というところで、プージャンホテルと呼ばれている。
そこには日本人のバックパッカーをはじめ、欧米人や中国人も多い。
ドミトリーだけでなく、シングルやダブルの部屋もあるようで、貧乏旅行者以外の人もよく利用するようだ。
私も他に安宿を知らないので、やはりそこに泊まることにした。
ホテルの外観は100年前に建てられたような、それでいて格式が感じられる造りで、中に入るとおよそ安宿とは思えないような、小奇麗なレセプションがあった。
エレベーターはレバー式の手動で、係員がいなければエレベーターが動かないといった旧式のつくりも、私には新鮮に感じられた。
エレベーターを降りてから、部屋までの廊下は、まるで幽霊でも出そうな洋館といった感じだった。
赤い壁に黄色い電球が反射して、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
ホテルの廊下は自分の部屋の、さらに奥まで続いていて、まるで迷路である。
ドミトリーに案内されると、一つの部屋にベッドが8つと、テレビがおいてあるだけで、やはり安宿であったが、その少し怪しげなホテルがすっかり気に入ってしまった。
私はここで多くの旅行者と言葉を交わしたが、彼女もその一人だった。

声をかけてきたのは、彼女の方だった。
『英語が話せますか?』
それは日本語だった。
私はレセプションの前の休憩用の椅子に腰をかけて、煙草を吸っていた。
突然のその問いに戸惑って、「少しくらいなら」と答えると、彼女は安堵の表情を見せて説明を始めた。

彼女の名前はSさんという。
Sさんは2日ほど前に、成都からこのホテルに来たらしい。
1ヶ月ほど成都に滞在し、短期の中国語学校に通って、帰国の途中上海に寄った。
そしてこのホテルに泊まっていたが、ドミトリーで荷物が盗まれたのだ。
盗まれたものは、撮り終わったフィルム、眼鏡、Tシャツ、化粧水で、およそ盗んでもしょうがないような物だが、なくなってしまったようだ。
『犯人は分かってるの』
とSさんは言う。
同室に40歳くらいの、日本語を話す中国人の女性がいて、彼女のベッドからTシャツだけが出てきたらしいのだ。
また、同室の欧米人が、昨日の夜、その中国人女性が留守中のSさんのベッドの周りを何度もうろうろしていのを見たらしい。
もちろんSさんは、その中国人女性に何故Tシャツがベッドにあったのか、説明を求めたが、埒があかず、とりあえずフロントに説明に来たところだった。
Sさんの中国語では、そこまで説明できず、かといって英語だとフロントの従業員は話せても、Sさんが話せず、私に助けを求めて来たというわけだ。

自分も英語が得意なわけではないが、それくらいの説明だったらできそうだと思った。
フロントの従業員もやはり予想通り、それほど英語が堪能ではないので、誤解のないようにシンプルな英語で説明した。
Sさんのフィルム、眼鏡、Tシャツが盗まれたこと、Tシャツが同室の中国人のベッドから見つかったこと、またその中国人女性がSさんのベッドをうろうろしているのを欧米人が見ていたこと話すと、とりあえず部屋を見てみようということになった。

彼女のドミトリーの部屋に行くと、例の中国人と、欧米人もいた。
例の中国人女性は40歳くらいの小太りで、ひまわりの柄のワンピースを着ていたが、それがひどく似合っていない。
まず、従業員がその女性に中国語で何か言った。
するとその女性は急に怒り出し、従業員をまくしたてている。
その後Sさんの方を見て、今度は日本語でまくしててきた。

中国はいわゆる「口喧嘩」が有名である。
街をあるけば、必ずどこかでどなりあっている。
というよりののしり合っているようにも見える。
中国語のわかる人から言わせれば、あれば交渉だと言っていたが、それが分からない私にとっては、やはり口喧嘩である。
その女性はまさにその「口喧嘩」のように、激しく抗議してきた。
しかも日本語でである。
そしてその日本語は、小さいとき漫画で読んだような「ワタシ・・・アルネ」的な口調なのである。
『ワタシ、ヌスンデナイネ、ヌスンデドウスルネ、ワタシ日本人アルネ』
といった具合である。
そのしゃべり方があまりに漫画的で、おかしくて吹き出しそうになってしまった。

しかし当人のSさんは笑っている余裕なんてない。
中国人の女性に押され気味で、
『私の荷物返してください』
と反撃しても、
『ワタシ、ヌスンデナイネ、荷物シラベルネ』
の一点ばりで平行線だった。
『じゃあ、昨日の夜、彼女のベッドでなにしてたの』
と私も助け船を出しても、やはり同じ答えが返ってくる。
例の欧米人も
『ベッドのところにいたのは見たけど、盗んだかどうかはわからない』
と言って、やはりこれも決定打にはならなかった。
結局、真相はわからずに、Sさんが部屋を変わることで、落ち着いた。

その後もSさんとは顔を会わす度に言葉を交わしたし、一緒に食事をしたりした。
『そうゆうのってトラウマにならない?』
とSさんは言う。
Sさんは中国語を学びに中国まで来たが、もう二度と中国には来ないし、中国語もやらないと断言していた。
『中国語の辞書を買わなくてほんとに良かった』
とまで言っていた。
その気持ちは痛いほどわかった。
自分も以前フィリピンで睡眠薬強盗にあったことがある。
しかし、たった一つの出来事で、その国を一方的に判断してしまうのは、もったいないような気がした。
それにSさんもその中国人女性を犯人と決めていたが、それも一方的すぎるのではないかと思った。

ちなみにその中国人女性は、日本人の男性と結婚していて、日本国籍らしい。
だから日本人だと言っていたのだ。
その旦那が70歳で、女性は40歳。
『金が欲しくてだましたんだよ』
とSさんは言うが、いったいどっちがどっちを騙したのか・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください