パレスチナ1

確か、ミシュランの道路地図だったと思う。
イスラエル周辺国の人間に見られることを意識してか、中東地域のその地図には、イスラエルの国名は無く、パレスチナと書いてあった。
イスラエルはユダヤ人の言う国名、パレスチナはパレスチナ人、アラブ人が呼ぶ地域(国)名である。
この二つの名は同じ場所をさしている。
この両者の確執を説明しようとすれば、紀元前二千年までさかのぼらなくてはいけない。
ここではその歴史的説明を省くが、この地域では現在、ユダヤ人とパレスチナ人がその土地、主権などをめぐって争っている。

イスラエルに入国した私は、ナザレ、テルアビブとめぐり、エルサレムに着いた。
ここ、エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、ダビデがヘブロンより首都を移して以来の歴史ある町である。
特にその旧市街はその歴史を感じさせる所が多く、私の好きな町のひとつでもある。
私はこの旧市街のアラブ人地区の安宿に滞在していた。
同じ宿にはひとりの日本人女性(Tさん)が滞在していた。
「世界を見てまわっています」
私はTさんに、そう自慢気に話した。
Tさんは言う。
「もし、君が世界を見てまわっていると言うのであれば、ここには宗教遺物以外にも見るべきものがあるわ」
私は、それが具体的に何であるかを尋ねた。
「パレスチナ問題よ」
私もこの国に政治的問題があることは知っていた。
が、それはTVや新聞で見た程度のもので、詳しくは知らない。
良かったら、ヨルダン川西岸にあるヘブロンを案内しようかとTさんは言う。
私はお願いすることにした。

翌日、Tさんはどこかに電話した後、今日はヘブロンに行くのを止めようと言う。
理由を尋ねると、昨日起きた爆弾テロのため暴動が起こり、危険なためと言う。
私たちは、ヘブロン行きを一日延ばすことにした。

その翌日、今日は大丈夫だということで、Tさんと私、同じ宿に泊まっていたNくんの三人で乗合タクシーに乗って、ヘブロンに向かった。
ヘブロンに着き、この町を案内してくれるパレスチナ人のAさんが来るのを待つ。
シリアの町のようだ、とNくんは言う。
この町はユダヤ人の町とは違い、アラブのような町並みである。
Aさんがやってきた。私たちは、Aさんとあいさつを交わす。
Aさんは、平和的なパレスチナ解放運動をしている運動家である。
私たちは昼食後、ヘブロンの町を案内してもらうことにした。
ある通りを境に、あれほど賑やかだった町から人気が無くなった。
建物の窓や戸はすべて閉じられ、道路には石や瓦礫がちらばっている。
このあたりには人は住んでいないらしい。
向こうから二人のパレスチナ人が全力疾走してきた。
必死の形相で腕をふり、足をあげて走るようすは、たたごとでないことを私に感じさせた。
彼らに話しかけるAさんに、彼らは何かひと言だけ言って走り去った。
何を言ったのかと聞いてが、解からないとのことだった。

「あれを見てくれ」
建物を囲む塀の上に、銃座が作られてあった。
まるでトーチカのようだ。
あれがユダヤ人の住む家だと言う。
しばらく歩くと、パレスチナ人の居住区に入った。
Tさんは耳を澄ましてみてと言う。
耳を澄ますと、建物の中から子どもの声が聞こえる。
人が住んでいるようだ。
「なぜ、誰も外に出ていないのですか」
と私は聞いてみた。
「24時間の外出禁止令が出ているからよ」
とTさんは言った。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

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