ノースタンプの国1

ヨルダン、アンマンにある、バックパッカーの有名宿、クリフホテルから5分ほど歩き、バスターミナル行きの乗合タクシーを捕まえ、それで5分ほど走ると、アブダリバスターミナルという所に着く。
そのバスターミナルの端にある、キングフセインボーダー行きの乗合タクシーの集まる場所へと行くと、すでに3、4人の客を乗せたタクシーが待っていた。
その3列シートの、かつては黒光りしていたであろう車は、仮に新しくて、ボディがへこんだりしていなければ、いかにも要人を乗せて走りそうな車であるが、今はそんな面影もない。
かつて、十数年以上前は、そうやって使われていたのかもしれないが、現在ではただの乗合タクシーだ。
すでに車に乗り込んでいる他の乗客は、顔立ちからいって、パレスチナ人であった。

タクシーに乗り1時間半ほどで、ボーダーへと着く。
ヨルダンの出国はいたって簡単であった。
ただ、
『ノースタンプ、プリーズ』
と係り員に、何度も念を押した。
これから入る国の入国スタンプはもちろん、ヨルダンのそのキングフセインの出国スタンプがあるだけで問題がおきる。

私が向かっている国はイスラエルである。
そのヨルダンのキングフセインボーダーの出国スタンプがあるだけで、イスラエルに入国したとみなされ、他のイスラム諸国への入国を拒否される。
私がこれから訪れる国で、そのスタンプがあるとまずいのは、スーダンだった。

私は、後々面倒が起きるのが嫌なので、何度も
『ノースタンプ』
と念を押した。
そしてスタンプはパスポートではなく、出国税の紙の裏側に押される。

そして、さらにそこからバスに乗り、イスラエル側のボーダーへと行く。
イミグレとイミグレがこんなに離れているのもめずらしい。

途中の景色はこれでもかというほど、殺風景だった。
砂漠というよりは、荒野という表現が相応しい。
茶色の平原に、同じく茶色の岩山が時折顔を出す。

途中、一つ検問があり、防弾チョッキを着たイスラエルの兵士がいる。
そして、長い棒の先に円形のセンサーがついている機械で、バスの周りに爆発物がついていないかを丹念に調べている。
今まで私が越えてきた国境とは、あきらかにその緊張感というものが違った。

そして、バスは15分ほどして、イスラエル側のイミグレの前で止まった。
そこには、ジーンズに長袖のシャツを着て、マシンガンを持った兵士がいた。
ラフな格好ではあったが、彼は兵士だった。
そのあまりにラフな格好とM16のマシンガンが、似つかなくて異様な姿だった。
まるでアルバイトで、その殺人兵器を操っているように思えた。

私は他のパレスチナ人たちと一緒に列に並び、順番を待つ。
荷物は預け、自分の知らないところでX線にかけられ、開けられる。

そして人間は金属探知機のゲートへと入り、ブザーが鳴る限り何度もそこを繰り返し通される。
私は、普通にして通ってブザーが鳴ったので、まずはジャケットを脱げと言われた。

脱いだジャケットはX線の機械に通される。
それでもセンサーが反応するので、今度は時計をはずした。
その後、ブレスレット、財布、貴重品袋、指輪、ライターと、ポケットに入っていたものや、身につけていたものを、次々に外し、それらをトレーに乗せて預け、何回もゲートをくぐった。
それでも反応するので、ベルトをとった。
しかしブザーは止まない。
もうこれ以上取るものもないと思った。
すると、係員は靴も脱げと言う。
靴の金具が反応しているようだった。
それさえも脱いでゲートをくぐり、やっとパスすることができた。

その後がやっとイミグレである。
カウンターで係員の女性が、旅の期間や目的についていくつかの質問をした後、最後に、
『スタンプはいりますか?』
と聞いてきた。
つまり彼らも充分わかっているのだ。
自分の国のスタンプがあることによって、他のアラブ諸国の入国が拒否されることを。
私はもちろん、
『ノースタンプ』
と言って、パスポートではなく、別紙にスタンプを押してもらった。

そんなふうに、今までとは少し違う手続きをして、イスラエルへと入国した。

もともとイスラエルには行きたくなかった。
アメリカがイラクの戦争が始ると、イラクがイスラエルを攻撃する可能性があるからだ。
実際の前回の湾岸戦争では、イラクがイスラエルのテルアビブにミサイルを飛ばしている。
それに自爆テロに巻き込まれる可能性も否定できない。

しかし世界地図を広げると、トルコからエジプトへと陸路へ行くには、ヨルダンとエジプトが地続きになっていないため、どうしてもイスラエルを通過しないと行けない。
だからトルコでルートを考えているとき、イスラエルは2、3日で通り抜けようと思っていた。

ところがトルコから南下していく途中、他の旅行者からガイドブックを見せてもらい、ヨルダンから紅海を渡りエジプトに入国できるフェリーがあることを知った。
そのあたりのガイドブックを持たない私は、そんな基本的なことさえ知らなかった。

これでイスラエルに行く理由もなくなったわけだが、不思議なもので、行く必要がなくなると、行ってみたいという気持ちが強くなってくる。

しかし、治安の問題が心配だった。
ミサイルはともかく、自爆テロでさんざん新聞を騒がせている国である。
とにかくヨルダンのアンマンまで行ってから情報を集めて、イスラエルに行くかどうか決めようと思っていた。

アンマンのクリフホテルには、都合よくイスラエルから戻ってきた日本人旅行者がいた。
彼によれば、ユダヤ人の集まる新市街はともかく、旧市街であれば問題なく観光できるらしい。
自爆テロが起きるとすればユダヤ人の集まる、新市街のレストランとかバスであるそうだ。
つまり、イスラム、ユダヤ、キリスト教の聖地である旧市街を見てまわり、パレスチナ人の乗るアラブバスに乗って移動すれば、自爆テロに巻き込まれることはまずないという言うのだ。

そんな話しをきいて、私はこれなら行けそうだと判断した。
しかし、ユダヤ人とパレスチナ人が実際のところ、どんなふうに暮らしているのが、よくわからなかった。
それも、行けばわかるさという気持ちで、イスラエル行きを決めた。

エルサレムに着くと、ファイサルホテルというところに宿をとった。
そこには、数人の日本人旅行者がいたが、欧米人も多かった。
欧米人のほとんどは、NGOか、フリージャーナリスト、フリーカメラマンだった。

こんな時期にエルサレムに観光で来るのは、日本人くらいなのかもしれない。
日本人というのは、実にどこにでもいる。

エルサレムに着いて、 アンマンで会った旅行者の言っていることが、よく理解できた。
『旧市街ならテロの心配がない』
という意味である。

エルサレムは大きくわけて、新市街と、旧市街にわかれている。

新市街は小綺麗なデパートや店がならび、歩行者天国なんてものもある。
そこにはユダヤ人が生活している。
そこにパレスチナ人はいない。

そして、市内や近郊へのバスも、パレスチナ人の乗るそれと、ユダヤ人の乗るそれでわかれている。

そして、パレスチナ人がユダヤ人への抵抗の手段である、自爆テロをするとしたら、その新市街の人のあつまるレストランであるとか、ユダヤ人の乗るバスである。

一方旧市街は、聖地である。
ユダヤ、キリストの聖地もあるし、イスラムのそれもある。
そのなかには、パレスチナ地区、ユダヤ地区、アルメニア地区、キリスト地区にわかれている。
パレスチナ人も住んでいるし、 イスラムの聖地である岩のドームもあるので、テロの対象にはならないのだ。

つまり、旧市街で、聖地をまわる観光をし、市内を移動するにも、パレスチナ人の乗るアラブバスに乗れば、まず自爆テロに巻き込まれることはないのだ。

エルサレムに着いてから、その旧市街を見て歩いた。

旧市街は、城壁にぐるりと囲まれている。
その城壁のダマスカス門をくぐり、まっすぐに歩くと、パレスチナの女性たちが、野菜や果物を売っている。
それを横目に見て、薄茶色の建物を抜ける。
そこで、イスラエル兵のよるボディチェックを受け、さらに歩くと、嘆きの壁に出る。

その壁は横に約100mくらいはあるのだろうか。
高さは7、8mくらいの茶色い壁である。
その壁の上に、イスラムの聖地である、岩のドームがある。
そこはイスラム教徒以外の入場が禁止されていて、なかには入れなかった。

嘆きの壁は真ん中で男性用と、女性用に分れている。
私はもちろん男性用のところに入る。
そこに入るにはユダヤ教徒のしるしである、キッパとよばれる、河童のお皿みたいな帽子をかぶらなければならない。
入るといっても別に屋根があるわけではない。
そのキッパがないと、壁の目の前までは行けなくなっているだけである。
私もそれを借りて、壁の正面まで行った。

壁の前では、ユダヤ教の正装である、黒ずくめの服を着た男たちが、祈りの本を読みあげている姿がある。
その格好は、帽子も黒のシルクハットで、頭の先から足の先までが黒である。
もちろんキッパをかぶっている人もいる。
そして、敬謙なユダヤ教徒は、もみ上げを、あごのところまで延ばしている。
全身真っ黒に、もみ上げがあごまであると、ちょっと愛敬がある。
そして彼らは祈りながら、何故か身体を前後に揺らし、その様子は何か別の境地に入っているようにも見える。

もちろん、キリスト教の聖地である、ゴルゴダの丘にも足を運んだ。
それは単に丘だと思っていたが、聖墳墓教会という大きな教会のなかにあった。
要は、かつてゴルゴダの丘だった場所に、教会を建てたのだ。

聖地を抱える旧市街は、私が今までに見たどの旧市街よりも私を引き付けた。
それはやはり、聖地特有の何かがあるからだろうと思う。

しかし、旧市街だけを見て、ヨルダンへと戻ること、何か不満みたいなものを持ちはじめた。
それは宿にいる他の旅行者や、ジャーナリストたちの話しをきいているうちに、それを感じ始めた。
そこには、ユダヤとパレスチナの問題が横たわっている。
目の前にそれがあるのに、それを完全に無視することができなくなっていたのだ。

そして、私はその場所から今までまったく知らなかった世界に足を踏み入れることになる。

へブロンの中心街から、街のはずれに向かって歩いていく。
徐々に人の姿は少なくなり、5分も歩くと誰もいなくなった。
それはまるで何かのB級映画に出てくるような、ゴーストタウンのようだった。
商店は全てシャッターが降ろされて、沈黙が街を覆っていた。
灰色の建物がつづき、その上に薄くらい雲がひろがり、それがいっそう沈黙の深さを増していた。

誰も歩いていない理由をSさんに聞くと、外出禁止令が出ているからだという。
外出禁止令。
私はそれを、歴史の教科書のなかでしか、聞いたことがない。

そんな中を歩いて、はたして大丈夫なのだろうかという不安を抱えながら、とにかくSさんの後を歩いた。

その日、Sさんと一緒に行動したのは、私一人ではない。
どちらかというと、私は単に連れていってもらっただけである。

ファイサルホテルには、ドキュメンタリーをつくっている一人の学生がいた。
彼は卒業旅行でそこに来ていた。
在学中にいくつかのドキュメンタリーを作ったという彼は、卒業後は、ジャーナリズムとは無縁のところに就職するが、自分自身を見失わないように、ドキュメンタリーをつくりにここへ来たと言っていた。
その彼のドキュメンタリーに対する思いが尋常ではないと思ったのは、彼はイスラエルに来るにあたり、遺書を書いてきたと聞いたときだった。
すでにその彼は、ウエストバンク(ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区)をはじめ、パレスチナ自治区のなかでも、現在もっとも危険なガサにも足を運んでいた。
そして、翌日日本人ボランティアのSさんと、一日行動をともにするというので、他の旅行者3人と、同行させてもらうことにした。

エルサレムのダマスカス門のところで待ち合わせて、初めてSさんに会った。
小柄な女性だったが、存在感があり、知的な顔立ちだなと思った。
彼女は、大学を卒業後すぐに、ボランティアとしてパレスチナに来た。
すでにボランティアを始めて1年が経ち、あと1年は滞在すると言っていた。
ボランティの内容は、パレスチナ人のために、情報を収集したり、提供したりするものだと言っていた。
その内容はよくわからなかったが、後方的な支援らしい。

そのSさんの案内で、ヘブロンへ向かった。
そこまでは、ワゴンの乗合タクシーである。
私たち以外は全てパレスチナ人である。
しかしエルサレムの街を出るときに検問があり、何人かのパレスチナ人は検問で降ろされた。
理由は持っているIDカードによって、自由にエルサレムを出入りできるものと、できないものがあるらしく、それを持たない者が降ろされたのだ。
『あとは、検問の兵士の機嫌にもよるよ』
とSさんは話していた。
交通の全てがイスラエルによって、統制されている。

ヘブロンに着いて、沈黙の街を歩くと、すぐに検問にぶつかった。
土嚢を積み、バリケードをはって、道を封鎖している。
そこには、3人ほどのイスラエル兵がいて、さらに物見台あり、そこにも監視のイスラエル兵がいる。
彼らは迷彩のヘルメットをかぶり、肩からマシンガンを持った兵士である。
警備員とは明らかに違い、彼らは軍隊だった。
その姿にこちらが威圧される。

私たちも当然止められて、Sさんがそこを通してくれるように交渉しはじめた。
私たちと同じように、2、3人のパレスチナ人がそこで止められていた。
彼らは帰宅途中らしいが、やはりここで止められる。
時には何時間も待たされたあげく、通れないこともよくあるらしい。

バリケードの向こう側には、およそパレスチナの町並みとは違う、小奇麗で白っぽい色をした建物が続いていた。
それが何なのかSさんに尋ねると、それがユダヤ人の入植地だという。
パレスチナの自治区のなかに、ユダヤ人が入植してきているのだ。
ユダヤ人がそこに入植する理由は、ユダヤ教の聖地ためらしい。
近くにユダヤ教の聖地があり、それをユダヤ人が管理するために、パレスチナ自治区のなかにユダヤの入植地ができたのだ。

そして、驚くことに、ヘブロンのユダヤ人入植者500人を守るために、3000人のイスラエル兵が駐屯しているというのだ。

私が、その入植地に目をやっていると、一人の中年ユダヤ人の男がゴミ袋を持って家から出てきた。
ゴミを捨てにやってきたらしい。
左手にゴミをもち、そして、信じられないことに右手にM16を持っていた。
それは、拳銃ではない。
マシンガンだ。
ゴミを捨てに行くのに、マシンガンを持つ国なんて、異常である。

『ここでは、ユダヤ人が自分の身を守るためになら、パレスチナ人に発砲しても、罪に問われないのよ』
とSさんは言った。
そこはもう、異常な世界だ。

ちなみにイスラエルは徴兵があり、女性もその対象となる。
当然免除になるケースもあるだろうが、基本的にはユダヤ人の全てが銃の扱いができるわけである。

結局その検問所を通過することはできずに、私たちは迂回することにした。
街の奥へと進むと、ちらほらとパレスチナ人の姿を見ることができた。
彼等は私たちの姿を見ると、気軽に声をかけてくる。

外出禁止令とは、単に外出できないという結果だけにとどまらない。
流通がストップするので、食料や日用品の入手が困難になる。
そして、物が流れないから、人々は職を失う。

私たちは更に街の奥へと進んだが、バリケードがはってあり、その奥へは進めなかった。
Sさんは、その奥にあるという、イスラエル兵に破壊された建物などを見せたいと言っていたが、結局それは見れなかった。

しかし、私にとっては、それで十分だとも言える。

このヘブロンも数ヶ月前までは、街中でロケット弾の飛び交う戦闘が続いていたと、ファイサルホテルの情報ノートに書いてあった。
今では落ち着いているが、やはり緊張している。
中心部の商店の窓には銃痕もめずらしくない。

ここへ来てようやくわかってきた。
イスラエルに住む、ユダヤ人とパレスチナ人。
パレスチナ自治区に入植として侵攻するユダヤ人。
それに対して行うパレスチナの自爆テロ。

そして、このままでは、なおさらヨルダンへは戻れないという思いに駆られはじめた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

「ノースタンプの国1」への1件のフィードバック

  1. 鉄郎さんは、元気なのでしょうか?
    イスラエルでは、大変ショックが大きかったと思いますが、また、旅の様子を教えてください。
    どうか、ご無事で、そして元気出して
    くださいね。
    がんばってください。

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