旅がまわる

新しい旅が始まった。
香港からひたすら西を目指し、イタリアまで行ったが、ここから先は進路を南へと取ることになる。
ひたすら南下して、南アフリカの喜望峰を目指す。
この後は誰かと何処かで落ち合う約束もなく、予算的な制約はあっても時間の制約はない。
帰国もいつになっても構わない。
良くも悪くも、新しい旅であることは事実だ。

イスタンブールからのバスは、シリアとの国境の街であるアンタクヤを目指し、20時間かけて走った。
いくらトルコのバスが日本並みきれいで、道もよく、乗り心地がいいとはいえ、やはり20時間はこたえた。
バスはアンカラを経由して、朝の7時にアンタクヤに到着した。

思えば、トルコではイスタンブールとエフェス以外に何処へも行っていない。
トルコに来るほとんどの旅行者が行く、奇岩で有名なカッパドギアにさえ行っていない。
また、バックパッカーに人気のサフランボルの旧市街にも訪れていない。
別にそれらを見てまわってから、シリアに入ってもよかったが、私はそれを止めた。

一つにはトルコならいつでも気が向いたときに来ることができると思ったからだ。
日本から飛行機のアクセスもいいし、休暇を利用した旅行でも十分楽しめる。

そして、トルコにいる限り、私はいろんなことを引き摺りながら旅をすることになるのが分かったいた。
それが本当の理由だ。
だから、早く新し旅をしたかった。
新しい旅の舞台はトルコではだめだった。
自分にとっては早く未知のシリアに入ることで、新しい旅ができると考えたのだった。

アンタクヤのバスオフィスで、シリアのアレッポ行きのバスチケットを買おうとして、トルコリラが足りないことを思い出した。
アレッポまでは、6,000,000(約5ドル)リラである。
この料金はイスタンブールにいるときに調べていた。
だから、イスタンブールできっかり6,000,000リラだけを残し、それ以外のお金を、バスの中で食べるパンやお菓子を買って、全て使い切ってしまっていた。

ちなみにトルコは超インフレでゼロの数が多すぎる。
トルコ人は、トルコリラの価値がどんどん下がるので、誰もがユーロかドルで貯蓄していた。

私は一つ大切なことを忘れていた。
トルコの公衆トイレではチップが必要なのである。
私は、イスタンブールからアンタクヤまでのトイレ休憩で、1回でもそれを払うと、バス代が足りなくなることはわかっていたが、やはりトイレを我慢するわけにもいかず、何回かそれを払った。
なので手持ちは4,000,000リラに減っていた。

オフィスの前で立ち尽くしどうしたものかと思ったが、無理を承知でカウンターにいる中年のおやじにお願いしてみた。

『トイレのお金を計算に入れるのを忘れていた。
日本では公衆トイレはフリーだからな。
だから4,000,000リラしか持ってないんだ。
これでなんとか乗せてくれないか』

我ながら、かなり無茶苦茶な言い訳であるが、言うだけ言ってみると、カウンターのオヤジは特に考え込むでもなく、4,000,000リラでいいと言ってくれた。
おまけに、まだバスが出るまでに時間があるからと言って、チャーイまで出してくれた。

定価より高い金を払わせられるのは、非常に不愉快だが、定価より安い金でバスに乗るのも他の客に申し訳なくてあんまり気持ちのいいものではないが、ここは彼の好意を素直に喜ぶことにした。

そしてそのバスは、無事に国境を越え、シリアに入国した。

シリアの入国した後に、すぐにバスは休憩した。
休憩所に設置してあるガソリンスタンドで給油のためだ。
バスは、そのタンクだけではなく、ポリタンクにもガソリンも入れ、荷台に詰め込めるだけガソリンを入れていた。
シリアの方がガソリンがずっと安いらしい。

その間私は、なにもやることがなかった。
チャーイでも飲みたかったが、シリアのお金がなにもないし、銀行もない。
そして、休憩所のいすでボーっとしているときに、近くにいた男にたばこをもらった。
顔立ちからして、中東のどこかの人であろうが、どこの人かわわからない。
シリア人かと思ってそう尋ねると、驚いたことにイラク人だった。
その、私と同年代の彼は、ほとんど英語は話せなかったが、
『イラク、バン、バン、ドカーン。デンジェラス』
と笑っていた。
いつ、アメリカとイラクが開戦してもおかしくない時期だけに、私は苦笑いをするしかなかった。

彼は懐から一枚の紙を取り出して、私に見せてくれた。
そこには私でも正確に理解できるほどの簡単な英語が書かれていた。

『数年前、父が貿易の仕事でキューバへと渡り、出だしは順調でした。
しかし、最近仕事で失敗したらしく、行方がわからなくなってしまいました。
今、母が深刻な病気になり、死ぬ前に父に会いたがっています。
私は父を探しています。
どうか協力してください。』

そう書かれていた。
彼は、シリアからキューバへと飛行機で飛び、そこで父を探すらしい。
英語ができないので、その内容を誰かに書いてもらったのだろう。
そしてその内容を、キューバに着いてから、会う人会う人に見せ、父を探すらしい。

しかし見つかるのだろうか。
その紙には、父の手がかりらしきものは何も書かれていなかった。
父の以前の住所や、顔立ちなども書いていない。
キューバに渡ってから、父の足取りを手繰っていくしかないのだろう。
まるで雲をつかむような話に思えた。

私は、
『お父さん見つかるといいね』
と日本語で言って、彼と別れた。

彼の故郷の国の大統領はともかく、そこに住む人は、やはり普通の人だ。
だいたい、独裁者の支配下にある国民が、同じく独裁的であるはずもない。
国とトップと、一般の市民の考えが同じ国なんて、めったにない。

そして、再びバスは走り出し、アレッポに到着した。
シリアの最初の街である。

その街にはアレッポ城という遺跡がある。
その城は外観は、石を積み重ね壮大であり、城の上から見るのアレッポの街並み美し
かったが、内部は修復している所も多く、あまり興味がなかった。
それでも一通り見学した後、アレッポ城の入り口付近にある、チャイ屋に入った。
料金を聞くと、30シリアポンドと高い。
0.5ドルだ。
他の店ならもっと安く飲めるはずだ。
それでも、城を見ながらチャイをすするのは悪くないアイディアだと思い、飲むことにした。

私の座った席の向かいに、40歳くらいのカフィーユを頭に巻いた男が、サングラスをかけて座っていた。
カフィーユとはアラファト議長のトレードマークのそれである。
しかし、サングラスのせいでその男は非常に威圧的ではあったが、絵に描いたようなアラブの男であることには違いがなかった。

私は思い切って写真を撮っていいか聞いてみた。
彼はただ、
『オーケー』
とだけ言って、私は写真を撮った。
すると、
『どこから来た?』
と彼は聞いてきた。
『日本人です』
とこたえると、
『ウエルカム ジャパニーズ』
とだけ彼は言った。
彼と交わした会話はそれだけだった。

そして、静かにマルボロを私に差し出して、あとはまた一人でチャイを飲み始めた。

しばらくして、ウエイターが彼のところにやってきて、お金を払っていたが、そのウエイターが私の所にもやってきて、
『彼があなたの分も払ってくれた。お礼を言ってくれ』
と言う。
もちろん私はお礼を言った。

私は彼の親切がスマートだと感じた。
ろくに話もしていない外国人にチャイをごちそうする。
私が礼を言っても、軽く会釈をする程度だ。
ウエルカムという言葉も、うわべだけではなさそうだ。

しかし、彼だけがスマートだったわけではない。
この手の親切は、シリアでよくあった。
そして誰もがウエルカムと言ってくれた。

私はシリアを好きになるだろうと、この時に思った。

またアレッポには旧市街もある。
石畳が敷き詰められていて、住居も石材でできている。
せいぜい2階建てのその脇を通り、細い路地を歩くのが好きだった。

ちょうどイスラム圏の休日である金曜日だったので、子どもたちが遊ぶ姿をよく見かけた。
カメラを向けると、子どもらはみんなカメラを意識して、きょうつけの姿勢になる。

そして写真を取り終わると、みんな口々に
『ジャッキー・チェン!! ブルースリー!!』
といって、カンフーの真似をする。
彼らを日本人だと思っているのかもしれない。
そして私が、ちょっと空手の構えをすると、
『おぉぉーーー!!』
っと喚声があがる。

私は、シリアに来るのはもちろん初めてだった。
しかし、何故か昔旅した場所にもどってきたと思った。

正確にいえば、ヨーロッパから、再びそうでない場所へと戻ってきたのだと思ったのだった。

旅が、ようやくまわり出した。
そうなふうに感じた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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