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- 旅のエッセイ、旅行記 -

20May10

放り投げた

  智は、その内の一つを手に取った。それは、心路がデリーを出る時に分けてくれたチャイナホワイトだった。少し黄ばんだ白い粉が、紙の折り目に沿うように包まれている。智は、再びそれを包み直すと他のものと同じように窓から放り投げた。放り投げられた包みは、あっという間に流れゆく景色の中へと呑み込まれ、見えなくなった。そして最後に、袋の中の一番奥に残されたもう一方の紙包みを、智は指先を使って引っ張り出した。包みを開けるとそこには、薄茶色のさらさらした粉が、乾いた砂漠の砂の小山のようにこんもりと盛り上がっていた。直規と心路と智の三人で一緒に買いに行った、思い出のブラウンシュガーだ。まるで小さな冒険のように楽しかったあの日。月の光が銀色に揺れていた。

  それは、懐かしい少年の日の思い出のようだった。この先またあんな日が訪れるだろうか?
これから先、一体幾つぐらいあの日のような思い出を作ることができるだろう?
それともそのような思い出は、時間とともに忘れ去られてしまうものなのだろうか。そして、アムリトサルのあの老婆のように、失われた時間の中で紅茶を啜って……、と、智は、そこまで思いを巡らせて、考えるのを止めた。そして勢い良く顔を上げると、ブラウンシュガーの包みを窓の外の風の中に投げ入れた。薄い茶色の砂漠の砂は、熱せられた砂の舞う暑い大気の中へと拡散していった。

  目を開けていられないような、細かい砂を含んだ埃っぽい風も、智には何故だか心地良かった。柔らかな朝の輝きから一転して、大地を焼き尽くさんばかりに照らしつける真昼の焦熱に、智の全身は焦げ付かんばかりに焙られていたのだが、それすらも智は心地良かった。じりじりと肌を焼く熱線に、智は、やる気が漲ってくるのを感じた。

 国境はもうすぐだった。前方には真っ直ぐな道が伸びている。智は、目を細めて道の向こうを眺めた ―――                   

----- 終 -----

15May10

生き延びて

  国境までの乗り合いバスを拾いに行く途中、ゲストハウスの中庭では相変わらずイギリス人の老婆が庭を眺めながら紅茶を啜っていた。目の前を智が横切ろうと、まるで無関心だった。一体あと何年、彼女はああやって紅茶を飲み続けるのだろう? ひょっとしたら永遠にあのままなのかも知れない。彼女やそれに関わる周りの物質は、彼女とともに時間の経過を無視しながら永久に存在し続けていくように思えた。彼女達は、移ろいゆく周りの世界から完全に孤立しているようだった。「ゴー・パキスタン、ゴー・パキスタン」

  乗り合いバスの運転手が、窓から身を乗り出しながら智に向かって声をかけた。智は、イエス、イエス、と言いながら、完全に停まり切っていないバスの乗降口に慌てて飛び乗った。バックパックの重みで仰け反りそうになっている智を、何人かの乗客が手を差し出して引っ張り上げてくれた。智は、サンキュー、と礼を言いながら、満員の車内に何とか座席を見つけて腰を下ろした。さすがに国境行きのバスだけあって、乗客はパキスタン人が多いようだ。人目でそれと分かる出で立ちの人が何人か見受けられる。国境特有の風景だ。国と国との間の景色は、だんだんと混ざり合いながら、まるでグラデーションのように徐々にその色彩を変えていく。

  見たことのない風景。聞き慣れない言葉。食べたことのない食べ物。手触りの違うお札や硬貨……。それら全部が、人間が人間として生活していくために生み出してきた物達だ。ちっぽけな人間が、厳しい自然環境の中で生き抜いていくために生み出した様々な物達。そしてそんな生活の中から発生した様々な文化、習慣。智は、それら全ての物に対してたまらない程の愛情を感じた。非力な人間が、何とかしてこの強大な世界に生き延びていこうとする、健気でたくましい精神。美しいたましい。智は、それこそがこの世の中で一番美しいものなのだ、と、今はっきりそう思った。

  智は、国境行きのバスに乗りながら、ふいに、バックパックの底に隠しておいた、チャラスやLSDの入った布製の小袋を、詰め込まれたたくさんの荷物を掻き分けながら取り出した。そして周りの乗客の目を気にしながら、一つずつ中のものを取り出すと、次々と窓の外へ放り投げていった。シート状のLSD、いくつかのエクスタシーの錠剤、そしてマニカランで岳志と買った棒状になったチャラス、ワン・トラ分、そして安岡に分けて半分になったマナリーのフレッシュクリーム、全て投げ捨てた。残されたのは袋の奥の方の二包の紙包みのみだった。

10May10

癒して

  安岡は、うろたえながら再び深々と頭を下げた。智は、いいよ、いいよ、とそれを制すると、思い出したように安岡に尋ねた。
「あっ、そうだ。安岡君、結局この後、どこ行くか決めたの?」 

  安岡は、いえ、まだっすけど……、と口籠った。
「もし昨日言ってたマニカランへ行くんだったら、町の入り口に、マニカラン・コーヒーショップっていう店があるから寄ってみてよ。アナンとプレマっていうインド人夫婦がやってる店で、岳志さんって日本人がいると思うから尋ねてみるといいよ。ガンジャやチャラスのことなら何でも教えてくれるよ。いい人だからさ。会ってみるといい。さっきあげたチラムのことも良く知ってるし。俺から貰ったんだって分かれば、すぐに仲良くなれると思うよ。あと、ココナッツ作ってくれたクレイジーなババもいるから。インドで最初にこれだけディープな所へ行っておけば、後はどんな街へ行ったってへっちゃらだからさ。
行ってみるのもいいかもよ」
「智さんの知り合いがいるんっすかあ……。マナリーから近いんっすよね。じゃあ、行ってみようかな……」

  智は、安岡の言葉に頷きながら、岳志やマニカラン・コーヒーショップのみんなのことを思い返した。しかしもうそれも、今となっては随分昔のことのように感じられる。ヒマーチャルプラデシュにコーヒーショップを広げる岳志の計画は、果たしてうまく行っているのだろうか?
「それと、もしデリーとかバラナシへ行くようだったら、ひょっとして谷部さんか建さんって人がいるかも知れないから、会ったらよろしく言っておいて。智はパキスタンへ行きましたよ、ってね。谷部さんは、さっき言ってた、そのチラムをくれた人で、あと、建さんは、そのチラムを凄く欲しがってた人だから、狙われないように気をつけて」
笑いながら智はそう言った。
「谷部さんと建さんっすね。分かりました。デリーもバラナシも多分行くと思うんで、もし出会ったらそうお伝えしておきます」
「バラナシはね、安岡くん、行った方がいいと思うよ。その建さんって人が、前、俺にバラナシの話をしてくれたんだけど、その人も恋人を亡くしててさ。色々あってバラナシに辿り着いたんだけど、ガンガーがその人への自分の思いを随分癒してくれたって言ってた。
それって何となく分かる気がするんだよね。あの街は、色々考えさせられる街なんだ。特に、死ってことについて。でも同時に、たくさんの魂を鎮めてくれる場所でもあると思うんだよ。様々なものを流していくガンガーの濁流を眺めていると、忘れかけてたたくさんの懐かしい思い出が、まるでその河の流れに映されてでもいるかのように心の中に甦って来るんだ。俺もいつかもう一度、ガートに腰かけてゆっくりとガンガーを眺められたらなあ、って思う。今回はもう無理だから、また今度、いつの日か、ね」
安岡は、頷きながら真剣な表情で智の話を聞いていた。話終えると智は、パンパンに荷物の詰まったバックパックを重たそうに背負い上げ、ジーンズについた砂や埃を軽く払った。
「いよいよっすね」
安岡がそう言った。
「うん。いよいよだ。元気でね、安岡君。いつの日かまた会おう。素敵なサッカーの先生になってね。応援してる」
智がそう言い終わるか終わらないかという内に、安岡は、目に涙をいっぱい溜めながら強く智の体を抱きしめた。    
「分かりました。がんばるっす、きっと、いい先生になってみせるっす」
安岡の声は涙や鼻水でくぐもっている。そんな安岡を見ていると、智の目にも自然と涙が溢れてくる。
「気をつけて、智さん! これから先長い旅、本当にお気をつけて!」
いよいよインドを離れるのだな、と、智は思った。そして別れというのは何度経験してみてもやっぱり辛いものだった。しっかりと安岡の体を抱きしめながら、智はしみじみとそう感じた。

05May10

かなり入念

  「やっぱ、行くんっすか?」

  翌日の朝、荷造りをしている智に安岡が声をかけた。
「ああ。今日、国境を越える」

ベッドの上に散らばった衣類を片づけている智を、安岡は、少し寂しそうな表情で眺めていた。
「でも、本当、イミグレ―ションでは気をつけて下さいよ。自分、かなり入念にバックパックを探られましたんで」
「そうだね……。見つかったらバクシーシじゃ済まないだろうからね。ちゃんと隠しておかないと……」
「自分、心配っすよ。智さんが捕まりゃしないかって。大丈夫なんすか? 本当に」

安岡は、心配そうに智の顔を眺めている。智は、バックパックの中に順番に持ち物を詰め込みながら、安岡の話を聞いていた。
「大丈夫だって。上手くやってみせるよ。これまでだって、俺、ガンジャやチャラス持ちながらいくつも国境越えて来たんだから。きっとうまく行くよ。犬さえいなければ大丈夫」

安岡は、はあ、そんなもんなんっすか、と溜め息をつくようにぼそりとそう言った。智は、パッキングの終わったバックパックを改めて点検していると、思い出したように、あっ、と声を上げた。そして、昨晩使ったままテーブルの上に置いてあったチラムを手に取って安岡に言った。
「これさ、安岡君にあげるよ」
智は、安岡にチラムを手渡した。
「え!? マジっすか? これ、智さんの大切なものなんっすよね。確か、誰かから貰ったって……」
狼狽しながら安岡は智にそう言った。
「ああ。デリーで会った谷部さんって人が別れ際に俺にくれたんだ。でも、その人もそれを知り合いのフランス人から貰ってて、更にそのフランス人も他の誰かから貰ってるんだよ。そうやって代々受け継がれて来たものだから、これでいいのさ。安岡君も、またいつか誰かにそれを譲ればいいし。もちろん、ずっと持ってたっていいしね。それは自由だ。
俺は、何となく安岡君にあげたいなと思ったからそうする訳で。だからもし邪魔にならなかったら貰ってくれないかな?」
安岡は、まじまじと手の中のチラムを眺めている。
「もちろん、頂けるものなら是非とも頂きたいですけど……。本当にいいんっすか?」
智は、もちろん、と言って安岡に微笑みかけた。
「分かりました。大切にします。そしていつかまた、自分もこれを他の誰かに手渡したいと思います」
そう言うと、安岡は、智に向かって深々と頭を下げた。智は、微笑みながら、じゃあ、これも持ってきなよ、と言いながら、マナリーのクリームを半分にちぎってポンッと安岡の方へ放った。安岡は慌ててそれを受け止めた。
「そんな、こんなものまで……。これも凄くいいチャラスなんっすよね……」
「ああ、まあ、ね。そのチラムとチャラスを、見る人が見たら、きっとかなり驚くと思うよ」

30Apr10

欠けたもの

「一ノ瀬さん、あの、自分、もう一つ思うことがあるんすけど……」
「えっ、何?」
智がそう聞き返すと、安岡はためらいがちにこう答えた。
「それは、欠けたものはもう戻らない、ってことなんすよ……」
安岡のその言葉を聞いたとき、智は少し胸騒ぎがするのを感じた。
「欠けたものは、戻らない……?」   
「ええ。例えば、自分や智さんは大切な友達を失った訳じゃないですか。それっていうのは、心のどこかが欠けている状態だと思うんっすよ。胸の中にぽっかりと穴が開いているというか……。そういう人達って自分も含めてみんななんすけど、無意識の内にその穴を埋めようとしてると思うんっすよね」  
智は、自分でも気が付かない内に身を乗り出しながらその話を聞いていた。
「でも自分は、いくらそれを埋めようとしたってその欠けたものって言うのは、決して埋まらないと思うんっす。多分、死ぬまでそのままなんじゃないかと……」

智は、何故だか良く分からないが、安岡のその言葉に今まで味わったことのないような感動を受けた。それは、智の知らない、静かで穏やかな衝撃だった。その言葉は、まさに智の心の核を突いたのだ。突かれたそのものは、ずっと智の胸の中で言葉に変わることなく沈澱し続けていた鉛のような思いだった。それを安岡は、容易く言葉に変換し、智の深い心の底から明るい表の世界へと引っ張りだしてくれたのだ。

――― そうだ、もう戻らないのだ。欠けてしまったものは、永遠に戻りはしないのだ ―――   
欠落した智の心は、安岡の言うように、何とかしてその穴を埋めようと必死にあがき続けてきた。しかし、それは決して元の形には戻らない。それを智は、自分に力が足りないせいだとして無意識の内に自分で自分を責め続けてきたのだ。そのことを、今、安岡の言葉によって智は強烈に理解した。そして「戻らない」という一見、救いのないようなその一言が、他の何万語にも勝る救いの言葉として、智の胸に染み渡った。

――― 一度欠けたものは、もう、元の形に戻ることはない……。間違っていない、俺は間違ってはいない。戻らなくたっていいのだ。必死に元に戻そうとしてもどうしても戻らずに、俺は焦ってばかりいたが、焦る必要などないのだ。俺は間違ってはいない。元に戻す必要など無いんだ。その欠落を、欠落として、受け入れることこそが重要なんだ ―――   

放心したように智は安岡の顔を見つめていた。安岡は、智の機嫌を損ねてしまったのだろうか、と、心配そうに智を見返した。しかし智は、安岡のそんな思いとは裏腹に、安岡の方に近づいていって両手でそっと彼の手を握りしめた。
「ありがとう、安岡君。その言葉こそ俺がずっと探し続けていた言葉なのかも知れない。
何だか胸のつかえがスッと取れたような気がするよ。安岡君のおかげだ。ありがとう」智にそう言われた安岡は、ホッとしたように表情が和らいだ。智は、インドを出る直前に安岡のような男に出会えたことをとても嬉しく思った。そして明日、インドを出発しようと思った。何となく今晩の安岡の話が、インドを出発しようとしている自分へのはなむけのように感じられたからだ。

インド最後のこの夜に、智達は、チラムを使ってチャラスを回した。智は、谷部に貰ったこのチラムをどうしても安岡に渡したくて、最後に一緒にキメたかったのだ。そして二人とも、かなりの量をチラムで吸ってそのまま眠ってしまった。

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  • 毎回読むのを楽しみにしていたのですが、最近更新されていないよ...
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