私が見たアフガニスタン

衝撃
カンダハル。かつてアレキサンダー大王の遠征でアレキサンドリアと名づけられた街。現在はタリバンの本拠地として最近メディアに登場 しているのをよく見かけます。

98年7月。空と大地以外何もない土漠を砂煙をあげながら私を乗せたワゴン車は地平線の向こうにあるこの街を目指していました。
道も標識もなく、太陽がなければ方向感覚さえ失う土獏の中、大地につけられた無数のわだちが街に通じる道しるべでした。
アフガン人でいっぱいの乗合ワゴンの中は、40度近い外気の熱とむせかえるような人の熱気で息苦しくなるほどでした。

途中、巨大な送電塔が街の方向に向っていくつも連なっているのを見かけました。
しかしそれらを結ぶ送電線はズタズタに切断され、垂れ下がりその機能をまったく果たしていないようでした。
内戦の続くアフガニスタンの現実がそこにありました。
数時間前に入国したばかりの私にはいきなり緊張が高まった衝撃的な光景でした。
「生きて無事に出国できるだろうか・・・」最悪の事態を覚悟して入国を決意したつもりでしたが、現実を目の当たりにして早くも恐怖と不安が心の中に入り込んできました。

言葉
「これは何と発音するんだ?」
アフガニスタン入国1週間前、国境から列車で4時間ほどの距離にあるパキスタンの街クエッタの宿でパシュトゥン人※1を見つけては何度もこの質問を繰り返しました。
何が起こるかわからないアフガニスタンで身の安全を確保するためには言葉は不可欠だと考えたからです。
よく使う言葉や単語を英語で彼らに尋ね、耳で聞いた音をカタカナに直し、何度も発音して覚え、通じるか確認する。
これを幾度も繰り返して語彙数を増やしていきました。

「ソ連軍が侵攻してきたとき、ムジャヒディン(イスラム戦士)に捕らえられたソ連兵は『コーラン※2を唱えてみろ』と要求され、唱えることができたものは捕虜に、できなかったものはその場で銃殺されたらしい」
途中で出会った日本人旅行者はアフガンに行くと言った自分にこう語りました。
真偽のほどは定かではありません。しかし私がコーランの一節を暗記しようと思い至るには十分すぎるほどの内容でした。
「アッラーフアクバル・・・」
祈りの時間に町中に1?2分ほど響き渡るこの祈りの言葉を書きとめ、何遍も復唱しました。命にかかわるかもしれないという恐れがあったので必死でした。
発音が正しいか何人にも聞いてもらって直しながら、数日後にはよどみなく唱えられるようになっていました。

アフガ二スタン入国3日前、マーケットで米ドルをアフガニスタンの通貨アフガニにチェンジし、シャルワールカミース※3をオーダーしてターバンを買い求めました。
タリバンはヒゲとターバンの着用を自国民に義務づけており、またなるべく目立たないように行動するためアフガン人になりすまして入国するつもりでした。

遺書
入国前夜、遺書を書きました。
最悪の事態が起きたことを考え、友人あてに封書を送り1ヶ月経っても無事の連絡がなければ実家に転送するよう依頼するつもりでした。
しかし当日になって思いを変え、書いたものに切手を貼ることなく荷物の中にしまいこみました。
理由を言葉に換えることはむずかしいのですが、最悪の事態を心のほんのわずかな部分でも認めることは、それを招きよせるように思えてきたからです。

早朝、アフガニスタンで目立たないようにと用意したアフガン人の服装を身にまとい宿を後にしました。
後から知ったのですが、奇しくも私が泊まっていた宿は、半年ほど前にアフガニスタンで消息を断った日本人旅行者がパキスタンで最後に泊まった宿でした。

通りを歩き始めて駅へと向う途中いつもと様子が違うのに驚きました。これまで遠慮容赦なく浴びせられた現地人の好奇心の視線がほとんど感じられなくなったからです。
ただ身にまとうものを変えただけなのに不思議なものです。

クエッタから国境の町チャマンまでは列車で約3?4時間。
窓から黄土色の土漠の先を目で追いながら心の中で「本当にこれでいいのだろうか?」と何度も何度も自分に問いかけました。
乗客が少しづつ減っていく中、不安は増すばかりです。

太陽が頭上に来た頃、列車は終着駅チャマンに到着しました。
同じ列車がしばらくすると進行方向を反転しクエッタ行きになります。このまま乗りつづけていれば昨夜までと同じようにベッドの上で安らかに眠りが保障され、降りればこれから先どうなるかわからないアフガニスタンが待ち受けています。
私はホームに降り立ち、少しの間ためらった後、「行くしかない」と決意を固め歩き出しました。

国境行きの乗合トラック乗り場は難なく見つかりました。
1時間ほどで荷台が人でいっぱいになるとトラックは動き始めました。
途中で検問がありましたが、係員は車を止め荷台に一瞥くれただけですぐに行けと指示を出しました。
ゲートが見え、国境かと思われましたが、運転手は係員に挨拶しただけで停車することもなく通り過ぎてしまいました。
国境では通常パスポートチェックがあるので、まだまだ先なのだろうと思っていました。
しばらく走ってからワゴン車が何台も集まっているところでトラックはエンジンを止めました。
「国境は?」運転手に尋ねると今来た方向を指差しました。
思いがけない返答に驚きました。
恐らく国境付近の住民は同じ民族でありアフガン難民も多いため自由に行き来をしているようです。
意図せず不法入国となり、アフガニスタン第1日目が始まりました。

※1 アフガニスタンの主要民族。タリバンもパシュトゥン人
※2 イスラム教の教典。イスラム教徒なら誰でも唱えることができる
※3 パキスタン、アフガニスタン男性の服装。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

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