穏やかな表情

「俺は、慌てて走り寄って大声で清志の名前を叫んだんだ。そしたらあいつ、河の中程でこっちを振り返って、笑顔で手を振った。一希さあん、ってな。その時のガンガーは、雨の後でちょうど水かさが増してる時で、流れもかなり速かった。俺は、危ないから早く戻って来いよ、って言ったら、清志は、大丈夫ですよ、向こう側まで行くんです、って言って再び泳ぎ始めた。そしてその後すぐ、清志はガンガーの濁流に呑み込まれてた。俺の目の前でな。あっと言う間だったよ。流されてあいつが見えなくなったのは」

一希の全身は、わなわなと震えていた。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に我慢しているようだった。震える唇から涎が垂れている。声にならない声が、一希の喉の奥から間断なく吐き出される。心路は、無言でそっと一希の肩を抱いた。一希は、崩れ落ちるように心路の腕の中に体を預けた。そしてひたすら煙草を吸い続け、訳の分からない独り言を呟き続けた。一希は、泣いてはいなかった。何か強力な抗力でもって、涙を流すことを猛烈に拒み続けているように見えた。心路は、そんな一希を無言で見守った。

「何だろうな……。向こう側まで行くって……。清志、あいつ、一体何を見に行こうとしたんだろうな……。何を見に行くつもりだったんだろう?」

伸び切った煙草の灰が一希の足の上に落ちた。一希は、それに気が付いているのかいないのか、その灰を払おうともしなかった。心路は、それを丁寧に落してやった。すると一希は心路を見て言った。

「なあ、心路。俺達、何の為にこの世に生まれてきたんだろう……。何か意味なんてあるんかな。清志は、一体、何を分かったっていうんだろう? あいつは、自分の生まれてきた意味ってやつを、一体、どう理解したっていうんだろう……」

一希の目が爛々と輝いている。鈍い輝きを放っている。心路は、尋常でない一希のその表情にたじろいで、それに答えるともなく、ただ、黙って一希を見守った。

一希は、もう殆ど燃え尽きてしまった煙草を灰皿に押し付けると、子供のようににこやかな微笑みを浮かべて立ち上がった。

「ほら、もう陽が昇る……」

一希は、窓の外を指差しながらそう言った。そう言う一希のその表情は、とても穏やかなものだった。智は、人間のそのように穏やかな表情をそれまで見たことがなかった。それは、智がそれまで見てきた人間の、どんな表情にも当てはまらないものだった ―――   —–

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