拍手や歓声

一希は、仁の手首のタトゥーにちらりと視線を落すと、仁にこう言い返した。

「ビビったんすか?」

鋭い視線で仁を見下ろしながら、あの、赤い蛇のような舌で、一希は唇を舐めている。ざわついていた部屋の中が、一希のその一言によって一瞬にして静まり返った。

「あいつ……、何言ってんだよ?」

一希のその一言に、心路が、驚いたようにぽつりとそう呟いた。 

しかし、仁は、少しも動じることなく、表情を全く変えずに一希を一瞥すると、再びもとのように目を閉じた。一希のすぐ横に座っていた男が、おい、一希、お前、仁さんに何言ってるんだよ、ほら、謝っちまえよ、と一希の腕を掴みながらしきりに小声でそう囁いた。一希は、その男の言うことを全く無視して腕を振り払うと、フン、と鼻を鳴らして、ヨウ、みんな、智の持ってきたクリームでバケボン始めようぜ、ビビってる奴は放っといてさ、と大きな声でそう言った。皆は、仁を中傷するような一希の言動に戸惑いながらも、その場の雰囲気に呑まれてしまい、控えめにその言葉に賛同した。 

部屋の真中に、水を張ったポリバケツと底の部分を切り取ったミネラルウォーターのペットボトルが用意された。一希は、誰かから借りてきたチラムに智のクリームを詰め込むと、自分でそれに火をつけて、水の中に半分程沈めてある底の無いペットボトルの口に差し込んだ。そしてゆっくりとペットボトルを水の中から引き上げていく。すると、内部の気圧の変化でチラムの差し込まれた口の部分から、大量の煙が、ペットボトルの中へと入り込んでいった。さらにそれを、切り取られた底の部分すれすれまで引き上げていくと、ペットボトルの中は、もう、真っ白になる程チャラスの煙で充満していた。

一希は、満足そうにその様子を眺めると、群集の中から智の姿を探し出し、にっこりと微笑んで手招きをした。

「やっぱり一発目は、このクリーム持ってきた智でしょ? ほら、智、こっち来いよ!」 突然一希の指名を受けた智は、えっ、オレ!?、と戸惑いながら我が身を振り返ったが、周りから沸き起こる拍手や歓声のせいで、もう既に引くに引けない状態になっていた。智が渋々一希の方へと近づいていくと、一希は、早く、早く、と手招きして智をポリバケツの方へと促し、煙のいっぱい溜まったペットボトルの口から素早くチラムを引き抜いた。

「ほら、サトシ、口つけろよ!」

智は、一希に言われるがままそこへ口をつけたものの、それからどうすれば良いのか分からずにその姿勢のままボーッとしていると、一希が、馬鹿、何やってんだよ、そのままボトルを沈めるんだよ!、と言って強引に智の後頭部を押さえ付けた。いきなり頭を押さえ付けられた智は、ペットボトルが沈んでいくにしたがって、中にいっぱい詰まった濃いチャラスの煙を否応無く口から吸い込んでいく形となった。智は、必死になって抵抗を試みたが、一希が更に力を込めて押し付けてくるので、最後にはバケツの水を誤って飲み込んでしまう程深々と、ペットボトルを水の中へと沈め切った。要するに智は、ペットボトルの容量二リットル分のチャラスの煙を一気に吸い込んだということになる。

智は、濡れた顔をバケツの中から勢い良くあげると、目を白黒させながら喉を抑えて部屋の外に駆け出していった。そんな智の背後から、一希や皆の笑い声が響いてくる。外に出ると、木製のテラスの床に智は倒れ込んだ。そして激しくむせ返った。むせ返る度に、涙や鼻水が顔全体から吹き出してくる。乱れる視界の中で、遠くの山々が星の輝きによってぼんやりと照らされているのが見えた。背の高い針葉樹林達が、何本も、うねるように絡まり合っていく。智は、不思議と祖母のことを思い出していた。いつも祖母と一緒だった、懐かしい幼少の日々……。ああ、あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだろう……。 

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