年令にまつわる話

もし仮に自分の年令を今まで知らなかったとして、そんな生活が成り立ち得ただろうか。
絶対ムリだろう。
学校へ入るときだって何するときだって、年令とはとても重要なものになってくる。
日本では、ね。

でもインドみたいな国ではそうでもないようだ。
以前書いた、インドで結婚した女の子、のだんなさんは思いっきり知らんかった。
お母さんも知らんかった。
誰も知らんかった。
ただ彼が生まれたのはマンゴーのおいしい季節だった、とだけ知られていた。
そのかすかな情報と、心もとない推量とによって彼の年令はきめられた。
そして国際結婚に臨んだのだ。
要するに、その日まで年令を知る必要が全くなかったのだ。
彼の生活において。
まあ、よっぽど田舎だし、貧しい育ちだからかもしれんけどね。
でもその辺りではけっこう普通みたいだ。
だから150才のじいさんばあさんがいても、当てにならない。

こんなのを聞くと驚きとともに、ちょっと不思議な感じがする。
べつに年令なんて知らんでも生きていけるんだなあ、と新鮮な感覚にとらわれる。
体が軽くなるような自由さを感じる。
かなりいい加減な社会だな、と思う。

でももともと年令なんて、生きていく上でそんな重要なものじゃなかったのかもしれない。
ただ文明が進んで社会が複雑になって、それとともに色々ややこしい制度ができて、細かくなってその結果だろう。
そう考えるといわゆる今の文明国の現状には他にもたくさんの
そうたいして重要じゃない重要なこと、が色々あるような気がしてくる。
ぼくらが気にしている様々なことは、実はそれほど大したことではないのかもしれない。

こういった無秩序なエピソードや社会を見せられるとそう思う。
笑かしてくれるわ。まったく。
人間や人生なんてずっとシンプルでストレートなものなんだろうな、きっと。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

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