チョコレート2

翌朝、私はこの日も一番後に宿を出た。
レイケたちに追いつき追いこす。
後ろからレイケが何か叫んでいる。
振り向くと、レイケが違う道を指さしている。
どうやら道を間違えたようだ。
いま来た道をもどってゆく。
方向音痴な私は、よく道に迷う。
一度などは、目的地まで半日で行けるところを道に迷い、到着したのが翌日の昼だったこともあった。
「ありがとう」
私はレイケに感謝した。

カリコーラに先についた私は、適当な食堂に入り、簡単に食事をした。
ホットレモンも飲みおえ、そろそろ行こうかと思ったとき、レイケたちがやってきた。
すれ違いに出てゆくのは失礼だろうと思い、私は彼女らとおしゃべりをした。
その中で私は、「結婚についてどう思う」
と彼女らに聞いてみた。
このときレイケは私と同じ27歳、眼鏡の彼女は28歳だった。
彼女らは、私が、私と結婚しないかと聞いたかと思い、「私たちはクリスチャンとしか結婚はしない」
と婉曲に私を断ろうとした。
「違う、違う」
と私は言い、私は欧米人女性の結婚観を聞きたいのだ、と言った。
これがまずかった。
彼女らの感情に火をつけてしまった。
「多くの人たちが20歳くらいで安易に結婚してしまうけど、彼らの離婚率が高いのは事実だわ。それはもちろん幸せに結婚生活をおくっているカップルもいて、私も彼らみたいになりたいとは思うけど。結婚してすぐ離婚してしまうなんて、ナンセンスだわ。それだったら私は、良い人をじっくり探して幸せになれる結婚をしたい」
それを正論だと思った私は、彼女らにそれを話したが、彼女らの感情の高ぶりはそれぐらいでは収まらず、彼女らの感情が落ちつくまで、彼女らの言い分を聞くはめになった。
彼女らが、自分の言っていることが正論だと信じながらも、それを気にしているところもあるからなのだろう。
それに、レイケは感情が高ぶりやすい女性だということを忘れていた。昨晩も一昨日の夜もそうだったが、夕食時に自然と始まる旅の話のときはよく感情的になって話していた。
――つまらない質問など、するものじゃないな。
私は反省した。

途中、山道の疲れが残っているのか、眼鏡の彼女は休憩すると言った。
レイケと私も休憩しようとするが、「追いつくから先へ行っていて」と言われ、先に進むことにした。
「ハローペン、ハローペン」
これはトレッキング中、地元の子どもからよく受けるあいさつである。
その意味を日本語に直すと、「こんにちは、ペンをください」となる。
私はそう言われる度に、「俺はペンじゃない。某だ」
と答えていた。
このときもそう言った。
レイケもそれにつづく。
「私はペンじゃない。レイケよ」
笑われるかもしれないが、私はこのときレイケに相棒、同士のようなものを感じた。
レイケに子どもが何かを言い返した。
放っておけばよいのだが、レイケは彼らに何か言い返す。
その途端、子どもたちとレイケは、手や持っていた杖を銃に見立て、銃撃戦をはじめた。
手でピストルを作りバン、バンという子どもたちに対して、レイケの杖はマシンガンだ。
「ドゥドゥドゥドゥドゥドゥドゥ」
勝負はあっけなくついた。
気の利いた子どもたちがやられたふりをすると、レイケは銃口の煙に、ふうと息をかけ、「さあ、行きましょう」
と言った。

きついのぼり坂をのぼり、ブプサの村についた私は、茶店でララヌードルスープを頼んだ。
ララヌードルスープはネパールの定番インスタントラーメンである。
私がそれを食べおわるころ、レイケが坂をのぼってきた。
屋外のテーブルについていた私は、レイケに声をかけた。
彼女は、「ああ疲れた」と言いながら私の隣に座った。
「あなたがここに着いてから、私がここに来るまで何分経った?」
時計を見ていなかった私は、どれくらいだったかなと思いだそうとした。
「二十分くらい?」
「十五分くらいかな」
そう答えると、彼女は喜んで、何にしようかなとメニューを見はじめた。
「この店はコーヒーが安い」
どうやら他の店より安いらしい、「今日はついている」と言って彼女は無邪気に喜び、コーヒーを注文しにいった。
戻ってきた彼女は私の向かいに座り、バックパックからスニッカーズを取り出すと、「最後の一本だけど食べちゃおう」
と言って、おいしそうに食べはじめた。
スニッカーズ、ピーナッツをチョコレートで包んだもので、私は日本にいるときはTVのCMを見ても、それを食べたいなどと一度も思ったことがなかった。
が、トレッキングをはじめて十日目のいま、嗜好品に飢えていた私は、彼女がそれを食べているのを見て、「買ってくる」
と店に入った。
店の奥さんにスニッカーズの値段を聞くと、90ルピー(約180円)と言う。
ここは山奥だから仕方がないが、この値段はカトマンズで同じものの倍の値段で、ここではダルバートよりも高い。
貧乏旅行者である私は迷いに迷ったが、スニッカーズはあきらめ、15ルピー(約30円)ほどのビスケットを二つ買った。
テーブルに戻った私は、レイケに、「高かったから買わなかったよ」と言った。
「半分食べる?」
彼女は私に食べかけのスニッカーズを勧めてくれた。
「ありがとう、でもやめとくよ」
私はその理由を、「ナムチェのバザールへ行けばカトマンズと同じ値段で買えるから」と話した。
スニッカーズを勧めてくれたお礼にと、私はビスケットの袋をやぶいて彼女にそれを勧めた。
袋をやぶいたときに、テーブルの上に散らばってしまったビスケットをあつめていると、その手の中に半分に折られたスニッカーズが飛びこんできた。
私は咄嗟にレイケを見た。
「あなたのものよ」
彼女はそう言って、微笑んだ。
その瞬間、私は彼女をたまらなくかわいらしく感じ、そして、彼女に恋をした。
私はお礼を言った。
そして、ナムチェのバザールでスニッカーズを二本手に入れて、レイケにプレゼントすると約束した。
「絶対よ。約束だからね」
私は充分に休憩したのと、レイケに対して学生のころのような恋心を抱いたことが、なにやら気恥ずかしいのとで、先に進むことにした。
「僕は今日、チュトックまで行くよ」
と言うと、レイケは、「友達はここまで来るのが精一杯だろうから、たぶん今日はここに泊まるわ」と言った。
私たちは、「サヨナラ」を言って別れた。

道中、私はレイケのことばかりを考え、レイケに対する自分の気持ちに自問自答を繰り返した。
――おまえはスニッカーズをもらったから好きになったのだ。
――違う。ここ数日、毎日彼女とふれあって、徐々にそう思っていたのだ。スニッカーズは好きになる最後のきっかけに過ぎない。
――だったらなぜ、彼女から離れようとする。
――今日の目的地がチュトックだからだ。
25歳までの人生を女性に振り回されて過ごしてきた私は、女性のために自分の予定を変更することを嫌っていた。
チュトックに着き、宿を決め、夕食を済ますと、私はドミトリーのベッドに寝転がった。
宿の天井を眺めながら、私は、ここ数日、毎日レイケといっしょだったことを思い出し、なぜ今日はいっしょではないのかと思い、そのことにさみしさを感じた。
「また、彼女に会えるだろうか」
私はひとり、つぶやいてみた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

チョコレート1

初めて彼女に出会ったのは、ネパール、リングモの宿だった。
前日洗った洗濯物が乾かず、私はひとりきりのドミトリーに二泊することになった。
夕方、ドタドタと階段をのぼってくる足音が聞こえると、二人の欧米人の女性がバックパックを背負ったまま、ベッドに倒れこんだ。
「疲れたぁ」
「死ぬう」
――ずいぶんにぎやかなトレッカーだな。
寝袋にくるまって、ベッドに寝転んでいた私は、そのまま半身を起こした。
透明感のある金髪の女性が、倒れたまま顔をこちらに向け、「風邪で寝ているの」
と、起こしてしまったことを申しわけなさそうに聞いてきた。
「いや、することがないから寝ているのだよ」
私は、洗濯物が乾かないことや、暗くなってきて本が読めなくなったことを話した。
「そう」
彼女は、よかったという様子を表情にあらわした。
「どこから来たのだい」
と私は彼女らに尋ねた。
「デンマークよ」
と彼女は言うと、もう私のことなど忘れたように、二人ともそれぞれに宿の細いベッドを二つくっつけ、バックパックから取り出した荷物をその片方に広げると、寝袋にくるまって寝はじめた。
――うわさのデンマーク人女性コンビは、彼女らか。
私は彼女らのことを、話には聞いていた。
とても歩くのが遅く、すぐ疲れて休憩し、ちっとも前にすすまない、と。
私はトレッカーたちが話していたのを思い出し、声を出さずに笑った。
よほど疲れているのだろう、スースーと彼女らの寝息が聞こえてきた。
私は本を一冊持って、ダイニングへ向かった。

リングモは標高2700mの高地、日が暮れてくるとたまらなく寒くなる。
私は宿のダイニングで、ブリキ缶でつくられた火鉢にあたりながら、夕食ができあがるあいだ本を読んでいた。
私のほかにはイングランド人の夫婦が、やはり火鉢にあたりながら会話を交わしていた。
そこに彼女らが入ってきた。
彼女らも宿の主人に夕食を注文すると、火鉢にあたりはじめた。
夕食はすぐ出来た。
全員同じものを頼んだからであろう。
皆が頼んだものは、ネパールでは定番のダルバート(豆スープのかかったご飯)だ。
「いっしょに食べましょう」
と、ドミトリーで私と会話を交わしたデンマーク人女性が提案した。
私たちはテーブルを動かし、火鉢を囲んで食事をすることになった。
食事はひとりより大勢のほうが楽しい。
皆それぞれにトレッキング中の失敗談などを話し、笑いあった。
英語の苦手な私はあまり会話に参加できないが、イングランド人男性やデンマーク人女性が気をつかって話しかけてくれるので、さみしい思いはしない。
食事が終わっても、会話はつづく。
デンマーク人女性たちは、大学に合格した後、そのまま入学せず、カトマンズの施設で、孤児たちのお世話をするボランティアをしているとのことだった。
彼女は、その様子を熱く話しはじめた。
私には半分も理解できなかったが、イングランド人夫婦の表情を見ていると、それが涙をさそう話であることがわかる。
彼女は、孤児が発生する理不尽さのようなものと、そのような状況でありながら、素直で愛くるしい子どもたちのことを話しているようだ。
彼女のそのクールな容姿からは想像しにくい熱い心情が、彼女の口から出てくるのを聞き、私はなにか意外な感じがした。

翌朝、すすだらけになった洗濯物を見て、驚いた。
昨日、長袖のダンガリーシャツと綿パンが乾きそうになかったので、宿の主人に頼み、竃の近くに干させてもらったのだが、どうやら主人はその洗濯物を、竃の上で干していたようだ。
「だいじょうぶ」
と宿の主人は言う。
「カトマンズでも問題ないよ」
確かにカトマンズではいいかもしれないが、日本では着られないだろう、と思いながらも、今日も出発できないよりいいか、と思い直し、宿を後にした。
イングランド人夫婦もデンマーク人コンビも、すでに出発していた。
ちっとも前に進まないことで有名な、デンマーク人コンビには負けるものかと、私は足を速めた。
マナストリーで有名なタキシンドゥーで、彼女らに追いついた。
彼女らはマナストリーを見てきたようだ。
「どうだった」
と聞くと、「よかったよ」
と言う。
私も寄ってみることにした。
寺院に入り、お坊さんにマナストリーはどこかを尋ねると、あちらです、と教えてくれた。
「寄付は必要ですか」
と尋ねると、もちろん、と言われた。
完全に貧乏旅行モードに入っていた私は、そう言われて見るのをあきらめてしまった。
いま思えば、日本円にして数十円のお金をケチったのはバカだったと思うが、このときの私は、一日5ドル(約600円)で済ませようとお金をケチっていた。
山の宿は、街よりも宿泊代が安いのだが、食事代が高い。
マナストリーより飯だ、と思った私は先を急ぐことにする。
途中、彼女たちに追いついた。
次の村がすぐそこだったので、「いっしょに行こうか」と言うと、眼鏡をかけたほうのおとなしい彼女が、もじもじしている。
「どうしたの」
と尋ねると、金髪の彼女が代わりに答えた。
「トイレなの」
どうやら、人が来ないときを見計らってすませようとしているらしい。
私は急いでその場を離れた。
しばらくして、後ろから金髪の彼女が追いついてきた。
「ねえ」
と彼女は私を呼んだ。
「名前、何ていうの」
私が答えると、彼女は名前を教えてくれた。
「私はレイケ」
カタカナで書くとレイケなのだが、日本人の私にはむつかしい発音で、私は彼女に何度もやりなおしさせられた。
私はこのときはじめて、彼女の名前を知った。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

偶然と必然

偶然の必然性について昔から考えていた。
旅をしていて、もっと考えるようになった。
きっとぼく以外の人も、旅をすればそう考えるようになると思う。
偶然は必ずしも偶然ではなく、必然は必ずしも必然ではないということ。

例えばぼくが旅をしたての頃、タイのバンコクである女の子を病院につれていった
右も左も分からんときで、無事彼女を送り届けたときには、ひとまわり大きくなれた気がしたもんだ。
そんなふうに、ぼくを成長させてくれた彼女なんだけど、それっきりで、とくに名乗り会うでもなく、知ってるのは名前ぐらいだった。
そんな彼女と、何と、1年後にインドの山奥で再会したのだ。
本当に山奥で、だよ。何も待ち合わせなんてしとらんのに、だよ。
バスで乗り合わせたのだ。
彼女は座席に座ってた。
乗り込んでいったぼくと目が会って、あ、日本人の女の子だな、と3秒後ぐらいに、ああ、ひょっとしてあのときの、となったのだ。

再会してからその後しばらく一緒にいたけど、劇的な再会を果たした割には特にぼくにとって特別な存在だったわけでもなく、恋に落ちるでもなく、そのままサラサラとお別れした。
かえって、会わん方が良かったかな、と思ったりもした。

まあ、それだけのことだけど、ただ、あんなとこで偶然に会うとはな、とさっきのあれを考えた。
運命が変わったとは思わないけど、あのバスで、何の約束もなく乗り合わせるタイミングは、軽く見のがすわけにはいかない。
約束してたってムリだ。あんなことは。
日本のバスならまだしも、インドのバスには不測の事態が多すぎる。
しかも、あんな山奥の小さな村で、だ。
ここまでくると、奇跡だ、もう。
そうやって考えると、その出会いになんらかの意味を求めてしまう、が、やっぱり何もなさそうだ。
まるで、神様がヒマつぶしに遊んでるみたいだ。

でもちょっと思うのは、類は友を呼ぶ、っていうのはこういうことかな、と。
多分彼女とぼくの中には何か似たとこがあって、その似たとこが共通の興味や趣味になったりして、だから同じところへ行ってみたいな、と思ったりして、その結果出会って、また出会って、これは必然といえば必然だし、偶然といえば偶然だし、どう、そう思わない?

だから偶然出会うっていうのは、高度に綿密で科学的なわけで、必然ということもできるし。
反対に、接点がまるでない人とはまるっきり出会わない。
言い換えると、出会いというのはどれも出会うべくして出会ってる、ということだ。
こう考えると、人と人との出会いがすごくエキサイティングなものになると思うんだけど、どうだろう?

ネパール人との結婚

ネパールでは、日本人女性とネパール人男性のカップルが、年間100組ほど結婚するという。
さらに多い年は、200組を越えるという。

カトマンズのタメル、ジョッチェン辺りを歩いていると、良くその組み合わせを見る。  
たまにひとりで歩いている女性に、一緒に食事でもと声をかけると、ほとんどの女性に約束があるからと断られる。
約束の相手はもちろんネパール人男性だ。

ネパール人の友人と話しているとき、日本人女性とネパール人男性のカップルを見つけた。
友人が教えてくれる。
「彼らは結婚するのだって」
2人はとても幸せそうに見える。

実は私も、ネパール人の女性を嫁にどうかと言われたことがある。
ナムチェからルクラに向かう途中の小さな村でのこと。
私は、壁に温泉マークが描かれた宿に泊まることに決めた。
日本を離れてから一度も湯船につかってないからだ。
宿には、主人と奥さん、娘と息子がいた。
風呂に入ること以外することのない私はひまをつぶそうと、犬と遊んでみたり、ダイニングで本を読んだりしていた。
娘さんがダイニングに入ってきて、私に無料でチャーをごちそうしてくれた。
私は退屈しのぎに色々話しかけてみるのだが、英語のあまりできない彼女は簡単な質問しか理解できない。
解かったことは、彼女が15歳ということぐらいだった。

夕方、その様子を見ていたらしい主人が、本を読んでいた私に声をかけてきた。
彼も私に無料でチャーをごちそうしてくれる。
テーブルの向かい側に腰かけた主人は、おもむろに話しはじめる。
「日本にフィアンセはいるのか」
私は、いないとこたえる。
「日本人とネパール人は同じ仏教徒だ。思考や習慣も西洋人と違って似ている」
私はクリスチャンなのだが、だまって話を聞いている。
「どうだ、うちの娘と結婚しないか」
私は娘さんの歳を聞いて知っていた。
「日本の法律では15歳の女の子と結婚はできない」
主人は嘘をついてでも、日本人の婿がほしいらしい、こう言った。
「娘は16歳だから問題ない」
私は笑った。
確かに、主人が私に薦めるように、彼女は働き者だし、かわいい顔をしている。
顔は、安達祐美にそっくりだ。
しかし、歳が12も違う。
あなたの娘を嫁に欲しくなったら来年ここに来るから、と言って、その話を終わらせた。
夜、宿の家族が食事をしている。
彼らが食べているのは、茹でたジャガイモ、だけ。
それをおいしそうに食べる娘さんを見て、私は思う。
彼女が日本で暮らすのは、無理だよなあ。
彼女の生活と日本のそれは、言葉はもちろん、食生活、生活習慣などすべてが違いすぎる。

私は、日本人女性とネパール人男性の結婚後の話を直接ではないが、いくつか聞いた。
毎朝、水汲みから始まる生活にがまんできず、新婚家庭から逃げ出した女性。
男が金目当てだったことに気づいたが、離婚するために多額の金が必要だった女性。
自分が2人目の妻(一夫多妻)であることを知らずに結婚し、家族の生活費のためにネパールで働く女性などなど。
ちなみに、結婚から3年以内で離婚する確率は、90%を超えるという。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ4

Aさんは、私たちにひとりのタクシー運転手を紹介してくれた。
彼は、モスクでユダヤ人青年が銃を乱射したとき、その場にいたという。
腰のあたりを撃たれ、いまでも立つことはできないようだ。
ひとりではタクシーから乗り降りするのも難しいという。
彼は、撃たれた後の入院生活から、タクシーの運転手になるまでの話を聞かせてくれた。
Aさんが彼の話を英訳してくれる。
彼は数年かかってここまで回復したそうだ。
くじけずにがんばってきた話が涙をさそう。
Tさんはその話を聞いて泣きだし、通訳ができなくなった。
「何か彼に聞きたいことはあるか」
そう聞かれ、私は、事件のことを聞きたいと言った。
「それは聞けない」
とAさんは言う。
なぜかと聞くと、Aさんも彼からその話を聞いたことがないからだと言う。
よほどあの事件のことがショックだったようだ。
私は聞かないことにした。

Aさんの弟が車で迎えにきた。
私たちは、タクシー運転手の彼に話を聞かせてくれたお礼を言い、Aさんの車に移った。
これでヘブロンの案内は終わりだ、とAさんは言う。
「最後になるけど、質問はあるかな」
イスラム教を信じているか、コーランを読んでいるかなど、あたりさわりのない質問をした後、「アラファト議長をどう思う」
と聞いてみた。
「物足りなさは感じるが、彼が我々の代表であることは認めている」
とAさんは答えた後、彼が死んだ後が心配だと言った。
パレスチナはどうなるのだろうと。
Nくんが、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)についてどう思うか尋ねてみた。
アンネ・フランクについてもどう思うか、と。
「悲しい出来事だと思う。しかし、彼らはナチスにされた行為を、いま私たちにしていることに気づいていない。それにアンネ・フランクは長い間ナチスから隠れ住んでいたようだが、私だって1?2年の逃亡生活をしていた」
アンネ・フランクだけが特別ではない、とAさんは言う。
平和的にこの問題が解決するのは難しい、と思う私は、Aさんにこう聞いてみた。
「もし、パレスチナ人に自由と主権を取り戻すため武器をとって戦うことが必要となったら、あなたは武器をとって戦うか」
Aさんは良い質問だと言ってから、こう答えた。
「戦う」
私たちはAさんたちと別れて、へブロンを後にした。

エルサレムの安宿には、多くのクリスチャンが泊まっていて、夜になっても聖書を読む人や、数人で集まり宗教談議を行う人たちが少なくない。
そして彼等の中には、ハルマゲドン(ヨハネの黙示録に出てくる最後の日。彼等は第三次世界大戦のことをそう呼んでいた)は、ここから始まると思っている人たちも数人いた。
私は彼等の言うことに賛同はしないが、笑いとばすこともできなかった。

最近、イスラエルのバラク首相とパレスチナのアラファト議長が、クリントン大統領の仲介で話しあいの場を持ったが不調に終わり、現在、イスラエルで起こった暴動をTVや新聞で毎日のように見ることができる。

余談だが、ユダヤ人、パレスチナ人の両者が首都にと望むエルサレムのヘブライ語の意味は、「二重の平和の所有」あるいは「二重の平和の土台」だという。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ3

私たちはモスクの近くにある、市場に向かった。
狭い路地にある市場はどこも閉まっている。
もう長い間、商売はしていないようだ。
道端には石やゴミが散乱し、頭上に張られたネットには石が載っている。
聞くと、このネットは投石を防ぐためのものだという。
ユダヤ人に向かって石を投げるパレスチナ人しかTVで見たことのない私は、初めパレスチナ人が投石したのかと思った。
が、Aさんは違うと言う。
「パレスチナ人がパレスチナ人の市場に投石するはずがないだろう」
ここは、パレスチナ人の市場だったとのことだ。
Aさんは、市場の頭上に塔のようにそびえる建物を指さした。
あそこには、ユダヤ人の家族が住んでいる。
Aさんは、こうなった理由を説明してくれた。
彼等は、ある日突然、ここにこの建物をたてた。
その日から、この市場に来る買い物客の頭上に、石が降るようになったという。
若いパレスチナ人女性がひとりで歩いていた。
外出禁止令が出ているため、パレスチナ人たちは、イスラエル兵に見つからぬよう裏路地を歩いている。
廃墟のような市場の、一件の商店の閉じられた扉に、青いペンキでイスラエルの象徴であるダビデの星が描かれていた。

私たちは、インティファーダの現場に行くことにした。
途中、二人のイスラエル兵に話しかけられた。
Nくんが写真を撮っても良いかと聞いてみる。
二人のイスラエル兵の間に入ったNくんを、私は写真に撮る。
イスラエル兵が持つアメリカ製の自動小銃に装填された弾倉の横に、もうひとつ弾倉がくくられているのを私は見つけた。
カメラには笑顔を見せる彼等だが、戦闘準備は整っている。

インティファーダの現場についた。
イスラエル兵の後ろから、それを見る。
ここの大通りの頭上にも、ネットや幕が張られていた。
もちろん投石防止のためである。
イスラエル兵のはるか向こうから、50人以上はいると思われるパレスチナ人の集団が、かわるがわる石を投げてくる。
正面からだけではなく、横の路地からも石が飛んできた。
イスラエル兵のひとりが銃口を向ける。
私たちがこの区域に入ったとき出会った全力疾走する二人のパレスチナ人は、横の路地から石を投げたのかもしれない。
私たちは場所をかえ、今度はパレスチナ人側に周って、その現場を見る。
いきりたったパレスチナ人が、イスラエル兵に向かって罵詈雑言を浴びせている。
数人のパレスチナ人がこちらに詰め寄ってきた。
Aさんが何か責められている。
その場の雰囲気が悪かったが、投石をする彼等の写真を撮っても良いかと私は尋ねた。
それが火に油を注いでしまった。
彼等は何か怒鳴っている。
Tさんに聞くと、「おまえはユダヤのスパイだろう」
「その写真をユダヤに売るのだろう」
と彼等は言っているという。
Nくんはその場の雰囲気を察し、壊されないようにとカメラを隠していた。
Aさんは私のせいでさらに責められ、頭を抱え、座りこんでしまった。
私は観光気分で見物に来たことを、反省させられた。
後で聞いたのだが、写真を撮られたために,ぬれ衣を着せられ逮捕された運動家が何人かいるとのことだった。
私たちは、その場を離れることにした。
私がイスラエルを離れた後の話だが、イスラエル兵がパレスチナ人に銃を発砲するような騒ぎが起きたと、Tさんから聞いた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ2

「24時間の外出禁止令ですか」
聞くと、先日の爆弾テロで8人の死亡者が出たために出されたとのことだ。
私は二人のパレスチナ人の老夫婦がこちらに歩いてくるのを見つけた。
「外出しているじゃないですか」
24時間といっても、一日のうち買い物などに必要な1?2時間は許可が出ているという。
しかし、仕事などには行けないとのことだ。
「だから、ここを離れる人が多いわ」
それが、パレスチナ人を追い出す、ユダヤ人の常套手段だとのことだ。
ヘブロンの地は、ユダヤ人にとってもパレスチナ人にとっても聖地である。
ここには、アブラハムとその息子イサクの墓があるからだ。
イサクにはエサウとヤコブの二人の息子があり、パレスチナ人はこのエサウから出、ユダヤ人はイスラエルと名を変えるヤコブから出ている。
両者にとって聖地であるこの場所を、ユダヤ人はパレスチナ人から取り戻そうとし、パレスチナ人はユダヤ人から守ろうとしている。

道路のアスファルトが黒くこげている。
ここで、車に仕掛けられた爆弾が爆破したらしい。
死んだ8人のうちわけは、ユダヤ人4人にパレスチナ人4人。
どちらが仕掛けたかわからないが、おそらくどちらも相手が仕掛けたと思っているのだろう。
その爆弾テロの後の話を私は聞いた。
爆破が起こってすぐ、家の中からUZIを持ったユダヤ人が出てきて、発砲したという。
UZIは、イスラエル製の高性能で有名なサブマシンガンである。
その男は軍人なのかと尋ねると、違うという。
一般人だとのことだ。
軍人がそのようなことをすれば、問題になるという。
一般人がUZIを持っているのか。
私は、その場から早く離れたくなった。

Aさんはモスク(イスラム教徒の教会)に行こうと言う。
私たちはモスクに向かった。
モスクの入口には、大勢のイスラエル兵がいた。
中に入っても良いかと尋ねると、ダメだと断わられた。
断わられたためくぐらなかったが、入口には空港にあるような金属探知機が備えてあった。
Aさんが、モスクの入口に金属探知機がそなえられたわけを話してくれた。
「初め、このモスクのほとんどはパレスチナ人のもので、ユダヤ人の礼拝所はわずかなものだった。
ある日、ユダヤ人の医師がお祈りの時間にモスクに入り、銃を乱射した。医師はその場で取り押さえられ殺されたが、大勢のけが人や死者をだした」
それ以来、モスクの入口には金属探知機が備えられたという。
「しかし、なぜ私たちパレスチナ人の入口に備えるのだ。銃を乱射したのはユダヤ人なのに」
この事件の後、モスクはユダヤ人の礼拝所がほとんどを占め、パレスチナ人の礼拝所はわずかになったとのことだ。
その医師は、ユダヤ人のあいだでは英雄になっているという。

シナゴーグ(ユダヤ教徒の教会)となったモスクの周りを歩いていたら、Aさんは指こそささないが、あいつを見ろと私たちに言う。
ひとりの初老のユダヤ人が、兵士たちと楽しそうに何か話している。
「ユダヤ人たちにラビ(師)と呼ばれるあの男は、数年前、パレスチナ人を射殺した。裁判で有罪になったのだが、わずか数ヶ月間入獄しただけで出てきたのだ」
Aさんはくやしそうに言う。
「もし、パレスチナ人がユダヤ人を殺したら、数ヶ月の入獄ではすまないだろう」

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ1

確か、ミシュランの道路地図だったと思う。
イスラエル周辺国の人間に見られることを意識してか、中東地域のその地図には、イスラエルの国名は無く、パレスチナと書いてあった。
イスラエルはユダヤ人の言う国名、パレスチナはパレスチナ人、アラブ人が呼ぶ地域(国)名である。
この二つの名は同じ場所をさしている。
この両者の確執を説明しようとすれば、紀元前二千年までさかのぼらなくてはいけない。
ここではその歴史的説明を省くが、この地域では現在、ユダヤ人とパレスチナ人がその土地、主権などをめぐって争っている。

イスラエルに入国した私は、ナザレ、テルアビブとめぐり、エルサレムに着いた。
ここ、エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、ダビデがヘブロンより首都を移して以来の歴史ある町である。
特にその旧市街はその歴史を感じさせる所が多く、私の好きな町のひとつでもある。
私はこの旧市街のアラブ人地区の安宿に滞在していた。
同じ宿にはひとりの日本人女性(Tさん)が滞在していた。
「世界を見てまわっています」
私はTさんに、そう自慢気に話した。
Tさんは言う。
「もし、君が世界を見てまわっていると言うのであれば、ここには宗教遺物以外にも見るべきものがあるわ」
私は、それが具体的に何であるかを尋ねた。
「パレスチナ問題よ」
私もこの国に政治的問題があることは知っていた。
が、それはTVや新聞で見た程度のもので、詳しくは知らない。
良かったら、ヨルダン川西岸にあるヘブロンを案内しようかとTさんは言う。
私はお願いすることにした。

翌日、Tさんはどこかに電話した後、今日はヘブロンに行くのを止めようと言う。
理由を尋ねると、昨日起きた爆弾テロのため暴動が起こり、危険なためと言う。
私たちは、ヘブロン行きを一日延ばすことにした。

その翌日、今日は大丈夫だということで、Tさんと私、同じ宿に泊まっていたNくんの三人で乗合タクシーに乗って、ヘブロンに向かった。
ヘブロンに着き、この町を案内してくれるパレスチナ人のAさんが来るのを待つ。
シリアの町のようだ、とNくんは言う。
この町はユダヤ人の町とは違い、アラブのような町並みである。
Aさんがやってきた。私たちは、Aさんとあいさつを交わす。
Aさんは、平和的なパレスチナ解放運動をしている運動家である。
私たちは昼食後、ヘブロンの町を案内してもらうことにした。
ある通りを境に、あれほど賑やかだった町から人気が無くなった。
建物の窓や戸はすべて閉じられ、道路には石や瓦礫がちらばっている。
このあたりには人は住んでいないらしい。
向こうから二人のパレスチナ人が全力疾走してきた。
必死の形相で腕をふり、足をあげて走るようすは、たたごとでないことを私に感じさせた。
彼らに話しかけるAさんに、彼らは何かひと言だけ言って走り去った。
何を言ったのかと聞いてが、解からないとのことだった。

「あれを見てくれ」
建物を囲む塀の上に、銃座が作られてあった。
まるでトーチカのようだ。
あれがユダヤ人の住む家だと言う。
しばらく歩くと、パレスチナ人の居住区に入った。
Tさんは耳を澄ましてみてと言う。
耳を澄ますと、建物の中から子どもの声が聞こえる。
人が住んでいるようだ。
「なぜ、誰も外に出ていないのですか」
と私は聞いてみた。
「24時間の外出禁止令が出ているからよ」
とTさんは言った。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

ボーダー2

金を渡してしまったら、もちろん返ってはこない。
取られてたまるか、と思った私は、「なぜだ」
と尋ねる。
係員は、「おまえ達は書き忘れというミスを犯した。それはおまえ達の責任だ」
だからパキスタンルピーを出せ、と言う。
そんなバカな話があるか。
「おまえ達インド人の係員が、書く必要がない、と言ったから私は書かなかったのだ。ミスを犯したのはおまえ達の方だ」
と私は言い返す。
「だから、パキスタンルピーを出す必要はない」
私と一緒にいる日本人旅行者も、ここがふんばり所と言い返す。
しかし係員は、「そんなことは知らない。ここに書いていない金を出せ」
と言う。
彼らもここでがんばらなければ、私たちから金が取れないため、ねばる。
「書いてないことがそれほど問題ならば、今から書くから貸せ」
と私は係員から用紙を奪おうとする。
係員は、私に用紙を渡すまいとする。
用紙をつかんだ私は、おもいっきり引っ張った。
ビリッ!
用紙は2つに破れた。
皆の視線が、破れた用紙にそそがれる。
その場に沈黙が流れる。
「もういい、ゆけ」
と係員が言う。
私たちはインドを出国した。

パキスタン側に入った。
パキスタンに入国するため、私たちは入国窓口の男に話しかける。
「君たちを入国させてあげたいのだけれど」
と窓口の男は言う。
「ペンが無いから、手続きができない」
仕方なく、私は係員にペンを貸す。
私たちの手続きが終わった。
ペンを返してくれ、と言うと、係員は私たちの後ろからくる欧米人を指さして言う。 「彼らの入国ができなくなる」
そんなにペンが欲しいのか。
しかし、係員にペンをあげる義理など、私にはない。
「私は、彼らが入国できなくてもかまわない」
私はペンを取り戻し、次のチェックポイントへ向かう。
次のチェックポイントは、荷物検査だった。
係員は、私たちのバックパックを碌に調べもしない。
「OKだ」
と言って、係員は私たちに尋ねる。
「私への贈り物はあるか」
私は笑いながら、そんな物はない、とこたえる。
「そうか」
さみしそうにこたえる係員を背に、私たちはパキスタン入国を果たした。
国境を越えるのは、どうもめんどうくさい。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

ボーダー1

ネパール、カトマンズ。
アジア横断の旅を目指す旅行者が私に教えてくれた。
「インド、パキスタン間の国境は最悪らしいですよ」
どのように最悪かと聞くと、国境警備の係員に持ち金をだまし取られるという。  その後も、私は何度か同じ話を聞いた。
日本の場合、出入国の管理官が旅行者の財産を狙うことはあまりないが、アジアでは公務員の特権とばかりに、それを行う者は少なくない。

私は、昨晩宿が一緒だった日本人旅行者と、インドのアムリトサルからバスに乗って、パキスタンに向かうべく、国境へ向かった。
国境が開く時間より早く到着してしまったので、私たちは両替を済ませ、国境が開くまでジュースを飲みながら待つことにした。
国境が開いた。
私たちは国境ゲートへ向かう。
ゲートでパスポートチェックがある。
係員が私たちのパスポートを見ながら、用紙に何か書き込んでいる。
書き終わった彼は、私たちにこう言った。
「1人5ドルずつ払え」
きたな。
私たちには、その心構えができている。
「そんな必要はない」
「先に通った西洋人が払っているのを見ただろ」
と係員は言う。
「見ていない」
その横をインド人が、係員に金を渡し、通り抜けてゆく。
インド人のさくらだ。
「ほら、皆払うだろ」
という係員から、私たちはパスポートを取り戻し、次のチェックポイントへ向かう。  もちろん1ルピーも払わない。

次のチェックポイントは建物内で、出国に必要な用紙への記入と荷物検査、所持している外貨を用紙に記入と、まともであった。
米ドルと日本円を書き込んだ私は、係員に聞いた。
「パキスタンルピーは書くのか」
インドでは、インドルピーを国外に持ち出すのは禁じられているため、私たちは国境手前の両替所で、インドルピーをパキスタンルピーに両替している。
それを書く必要があるのか、と係員に尋ねると、その必要はないという。
私たちは、次のチェックポイントへ進んだ。

次のチェックポイントは何事もなく通れた。
問題があったのは、その次のチェックポイントだった。
屋外に一組の机と椅子があり、若い係員たちが大勢待ち構えている。
いかにも何かありそうだ。
外貨を記入した用紙を渡せというので、彼らにそれを渡す。
もったいぶった様子で、ひとりの男がその用紙を眺める。
「インドルピーを持っているか」
「持っていない」
もし持っていたら、ここで没収される。
「日本円と米ドルを持っているのか」
「持っている」
隠すことではない。
「パキスタンルピーは」
「持っている」
と言うと、係員はこう言った。
「それは問題だ。この用紙には書かれていない」
係員は私たちに、パキスタンルピーを没収する、と言う。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。