私が見たアフガニスタン3

祖国
「中国人か?」
黒いターバンを巻き険しい顔をした男が近づいてきて私に英語で尋ねました。
真っ黒のターバンはタリバンの証しと聞いていたので、いきなり緊張しました。
「いや、日本人だ」
と私は冷静さを装いながら応えました。
鋭い目をし、濃い髭に顔中覆われた男はイメージしていたムジャヒディン・ゲリラ※の姿に近いものでした。

男は私の前に座ると、次々と質問をしてきます。
「どこから来たんだ?」「なぜここに来たんだ?」「・・・」
男の質問にひとつひとつ答え、一段落ついたところでこちらからも尋ねてみました。

「あなたは何をやっている人ですか?」
「私はパキスタン人で、国連の仕事に携わっている」
それを聞いてようやく緊張の糸を緩めることができました。

しばらく話しこんでいると、前で茶を飲んでいる5、6人の若者たちがこちらを気にしながらちらちらと我々を見ています。
そのうちひとりが私の前の男に話しかけてきました。
男はわたしにはわからない言葉で若者に話していましたが、どうやら私の素性を彼らに説明しているようです。

若者が納得し終えたような顔つきで彼らの席にもどったところで男に尋ねました。
「何だって?」
「彼らはクエッタ(パキスタン)から来ていて、お前が中国人かどうか気にしていた」
「なるほど。で、彼らは何でクエッタからカンダハルに来ているんだ?」

男は振り返って彼らに言葉を投げかけ、二言三言言葉を交わすと、顔を戻してサラッと答えました。
「ファイティング」
「え?」
別に珍しいことでもない当たり前のことを答えたかのように、その返答があまりもさりげなかったので思わず私は聞き返しました。
「戦いだ」
男は英語が通じなかったかと思った様子で言葉を替えて私に説明しました。

若者たちはニコニコしながらこちらを見ています。
髭もようやく生え始めたばかりのようで、産毛の延長みたいなまばらな髭をあごとほおに生やしています。
私は男に頼んで彼らにいくつか質問をしてもらいました。

「なぜクエッタ(パキスタン)から来たんだ?」

「両親は昔アフガ二スタンからクエッタにやってきた。今はクエッタで服屋をやっている。しかしここがオレの祖国だ。」

「戦いは怖くないのか?」

「ここは我々の国だ。祖国を守るために我々は戦う。」
私の質問に「何をバカなことを聞いているんだ」というような顔つきで苦笑しながら立ち上がって彼は答えました。

クエッタにいれば平和で安全な生活を送れるのに、自分が暮らしたこともない「祖国」を憂い戦いに飛び込んでいく若者たち。
彼らの強い眼差しを見て、日本の状況とは大きく異なる現実に深く考えさせられました。

当時(98年)はタリバンの影響下にある地域は国土の約7割で、北部の要所マザリシャリフもまだその範疇にありませんでした。

※ イスラム聖戦士。ソビエトの侵攻に頑強に抵抗し戦ったアフガニスタン兵士はムジャヒディンと呼ばれた。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

私が見たアフガニスタン2

日没
「ここがカンダハル・・・か」
太陽はすでに西に傾き、日没の時間が刻々と迫っている頃、国境で乗り換えた乗合ワゴンの窓から民家や人の姿がちらほら見えるようになりました。

ワゴンが停車し、屋根に積んであったバックパックを受け取ると町の中心らしき方向へ歩き出しました。
西に伸びた大通りの先は太陽が地平線へと近づつつきあり、砂埃のせいで光は拡散され、すべてがオレンジ色ににじんで見えました

道行く人は異国人である私に気を止める様子はまったくありません。
黒の長いターバンとグレーのシャルワールカミース※1。
彼らとまったく同じいでたちに疑う人はいませんでした。
変装の効果は想像以上でした。

自分の影が後ろにどんどん長くなっていくにつれて、早く今夜の宿を見つけねばと不安が増し始めました。
頼りになるのはパキスタン、ペシャワールで手に入れた1枚のコピー。
1年程前にアフガニスタンを通過した旅人が書き残した手書きの地図でした。
自分の現在位置もわからずただただ西へ歩き続け、時折立ち止まって地図に目をやり、宿らしきものはないかと見回していました。

急速に光を失いつつある街の様子は内戦の傷跡の陰影を強く映し出していました。
通りに面する商店や民家の2階部分はほぼ破壊され、柱や崩れかけた壁を剥き出しにしていました。
1階部分も恐らく同じように破壊されたはずですが、住んだり、店を営むために修復したのだと思われます。
1階のどこでも見られる日常的光景と2階の廃墟の対比がとても印象的でした。

地図
カンダハルには電気も水道も来ていないと聞いていました。
内戦でインフラは破壊されたようです。
カンダハルに向う途中で見た、町に向って連なる送電塔は線をズタズタに切断され、まるで屍のようでした。

刻一刻と迫る日没に街はゆっくりと影を増し、藍色に包まれ始めました。
人通りもわずかになり、焦る気持ちを抑えながら、空に残るわずかな光を頼りに手書きの地図を何度も広げ確かめました。
そしてようやく地図に宿の印がついている前まで辿りつきました。

外からは壁しか見えない建物はとても宿らしく見えません。
入り口はせまく、入り口に書かれたアラビア文字は当然読めるわけありません。
しばらく悩んだすえ、ためらいながらも建物の中に入ってみました。

中は大きな中庭があり、ターバンを巻いた髭面の男達が3?40人ほど座り込んだり寝そべったりしていました。
あたりを見渡し、受付らしき一画に座っていた男を見つけると、「ここは宿か?泊めてもらいたいんだが・・・。」と身振り手振りで、一生懸命伝えました。
意思が正確に伝わったのか伝わらないのかわからぬまま、男は「まあちょっと待て」と私を制すと外に出て行きました。

突然、アザーン※2が拡声器から街中に響き渡り、中庭の男たちはいっせいに同じ方向を向いて立ち上がり、祈りの言葉を唱えながら立ったりしゃがんだりを繰り返しました。
祈りの仕方を知らない私は、目立たないように隅で小さくなっていました。

祈りが終ると建物に明かりが灯り始めました。
先ほどまでは残骸のように見えた街灯にも黄色の光が点灯しています。
どうやらこの街では発電機で決められた時間だけ電気を流しているようでした。

建物の2階は茶屋になっており、茶を頼むと給仕していた男に先ほどと同じ質問を繰り返しました。
間違いなく宿のようです。ほっと胸をなで下ろしました。

しばらくひとりで茶を飲んでいると、男が強いなまりのある英語で話しかけてきました・・・。

※1 パキスタン、アフガニスタン男性の服装。
※2 祈りの時間を知らせるために謡われる祈りの言葉。拡声器、ラジオなどを通じて流される。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

私が見たアフガニスタン

衝撃
カンダハル。かつてアレキサンダー大王の遠征でアレキサンドリアと名づけられた街。現在はタリバンの本拠地として最近メディアに登場 しているのをよく見かけます。

98年7月。空と大地以外何もない土漠を砂煙をあげながら私を乗せたワゴン車は地平線の向こうにあるこの街を目指していました。
道も標識もなく、太陽がなければ方向感覚さえ失う土獏の中、大地につけられた無数のわだちが街に通じる道しるべでした。
アフガン人でいっぱいの乗合ワゴンの中は、40度近い外気の熱とむせかえるような人の熱気で息苦しくなるほどでした。

途中、巨大な送電塔が街の方向に向っていくつも連なっているのを見かけました。
しかしそれらを結ぶ送電線はズタズタに切断され、垂れ下がりその機能をまったく果たしていないようでした。
内戦の続くアフガニスタンの現実がそこにありました。
数時間前に入国したばかりの私にはいきなり緊張が高まった衝撃的な光景でした。
「生きて無事に出国できるだろうか・・・」最悪の事態を覚悟して入国を決意したつもりでしたが、現実を目の当たりにして早くも恐怖と不安が心の中に入り込んできました。

言葉
「これは何と発音するんだ?」
アフガニスタン入国1週間前、国境から列車で4時間ほどの距離にあるパキスタンの街クエッタの宿でパシュトゥン人※1を見つけては何度もこの質問を繰り返しました。
何が起こるかわからないアフガニスタンで身の安全を確保するためには言葉は不可欠だと考えたからです。
よく使う言葉や単語を英語で彼らに尋ね、耳で聞いた音をカタカナに直し、何度も発音して覚え、通じるか確認する。
これを幾度も繰り返して語彙数を増やしていきました。

「ソ連軍が侵攻してきたとき、ムジャヒディン(イスラム戦士)に捕らえられたソ連兵は『コーラン※2を唱えてみろ』と要求され、唱えることができたものは捕虜に、できなかったものはその場で銃殺されたらしい」
途中で出会った日本人旅行者はアフガンに行くと言った自分にこう語りました。
真偽のほどは定かではありません。しかし私がコーランの一節を暗記しようと思い至るには十分すぎるほどの内容でした。
「アッラーフアクバル・・・」
祈りの時間に町中に1?2分ほど響き渡るこの祈りの言葉を書きとめ、何遍も復唱しました。命にかかわるかもしれないという恐れがあったので必死でした。
発音が正しいか何人にも聞いてもらって直しながら、数日後にはよどみなく唱えられるようになっていました。

アフガ二スタン入国3日前、マーケットで米ドルをアフガニスタンの通貨アフガニにチェンジし、シャルワールカミース※3をオーダーしてターバンを買い求めました。
タリバンはヒゲとターバンの着用を自国民に義務づけており、またなるべく目立たないように行動するためアフガン人になりすまして入国するつもりでした。

遺書
入国前夜、遺書を書きました。
最悪の事態が起きたことを考え、友人あてに封書を送り1ヶ月経っても無事の連絡がなければ実家に転送するよう依頼するつもりでした。
しかし当日になって思いを変え、書いたものに切手を貼ることなく荷物の中にしまいこみました。
理由を言葉に換えることはむずかしいのですが、最悪の事態を心のほんのわずかな部分でも認めることは、それを招きよせるように思えてきたからです。

早朝、アフガニスタンで目立たないようにと用意したアフガン人の服装を身にまとい宿を後にしました。
後から知ったのですが、奇しくも私が泊まっていた宿は、半年ほど前にアフガニスタンで消息を断った日本人旅行者がパキスタンで最後に泊まった宿でした。

通りを歩き始めて駅へと向う途中いつもと様子が違うのに驚きました。これまで遠慮容赦なく浴びせられた現地人の好奇心の視線がほとんど感じられなくなったからです。
ただ身にまとうものを変えただけなのに不思議なものです。

クエッタから国境の町チャマンまでは列車で約3?4時間。
窓から黄土色の土漠の先を目で追いながら心の中で「本当にこれでいいのだろうか?」と何度も何度も自分に問いかけました。
乗客が少しづつ減っていく中、不安は増すばかりです。

太陽が頭上に来た頃、列車は終着駅チャマンに到着しました。
同じ列車がしばらくすると進行方向を反転しクエッタ行きになります。このまま乗りつづけていれば昨夜までと同じようにベッドの上で安らかに眠りが保障され、降りればこれから先どうなるかわからないアフガニスタンが待ち受けています。
私はホームに降り立ち、少しの間ためらった後、「行くしかない」と決意を固め歩き出しました。

国境行きの乗合トラック乗り場は難なく見つかりました。
1時間ほどで荷台が人でいっぱいになるとトラックは動き始めました。
途中で検問がありましたが、係員は車を止め荷台に一瞥くれただけですぐに行けと指示を出しました。
ゲートが見え、国境かと思われましたが、運転手は係員に挨拶しただけで停車することもなく通り過ぎてしまいました。
国境では通常パスポートチェックがあるので、まだまだ先なのだろうと思っていました。
しばらく走ってからワゴン車が何台も集まっているところでトラックはエンジンを止めました。
「国境は?」運転手に尋ねると今来た方向を指差しました。
思いがけない返答に驚きました。
恐らく国境付近の住民は同じ民族でありアフガン難民も多いため自由に行き来をしているようです。
意図せず不法入国となり、アフガニスタン第1日目が始まりました。

※1 アフガニスタンの主要民族。タリバンもパシュトゥン人
※2 イスラム教の教典。イスラム教徒なら誰でも唱えることができる
※3 パキスタン、アフガニスタン男性の服装。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

ピラミッド登頂記

エアメール
先日、エジプトから1通のエアメールが届きました。
差出人は紅海でダイビングライセンスを取ったときの先生からでした。
エジプトと聞いて忘れてかけていた記憶がよみがえってきました。

ピラミッド登頂隊
98年冬。前にも登ったことがあるとの理由でピラミッド登頂隊の隊長に選ばれた私は総勢10名を引き連れて深夜ピラミッドに忍び込みました。
闇夜の中、静かにピラミッドへと歩み寄ったのですが運悪く警備員に発見され、あっけなく一人御用。その隙に皆はイッキにピラミッドを駆け上がり始めました。
胸まであるような岩に手をかけよじ登り、てっぺんを目指しました。
「毎年数人は落ちて死ぬらしいよ」と誰かが冗談めいて話した言葉が頭をよぎります。
なるべく下を見ないよう、上空の暗いピラミッドの影だけを見つめるように心がけました。
とそのときずっと下の方から怒鳴り声のような声が風の音に混じって聞こえてきました。
我々の仲間とは違う別の影がずっと下の方で動いているように見えます。
警備員が追ってきたのかもしれません。登るピッチが自然と早まりました。

濃藍色一色だった空が、しだいに地平線のあたりから変化し始めました。
ようやく手元が見えるようになり、改めて自分の居場所の不安定さを認識しました。
約4600年前のピラミッドはところどころ風化が進んで、手をかけるだけでポロポロと崩れ落ちていきます。
落下し始めたらきっと大地に衝突するまで転がり落ちていくことでしょう。
岩を抱きかかえながらふと日本の新聞の三面記事のこんなタイトルが思い浮かびました。
「無謀な日本人旅行者ピラミッド登頂中転落。安易な冒険に警鐘!」

登頂
果てしなく続いているように見えた頂上も間近。
最後の岩に手をかけ頂上にようやく到達しました。
登り始めて約30分。すでに仲間の半数が先に登頂の喜びを噛みしめていました。

しばらくして登頂前に捕まったひとりを除き全員がそろいお互いの無事を祝っていると、突然浅黒いひとりの男が現れました。
「警備員が追ってきたのか?」だれもが最初はそう思いました。が どうも様子が違います。
「どこの国から来たんだ?」と警戒しながら尋ねると、その男は「インド」と答えました。
さらに詳しく聞くと、警備員にバクシーシ(ワイロ)を約1500円ほど渡して安全なルートから登ってきたということがわかりました。
誰もいないと思って登ってきたクフ王のピラミッドの頂上に日本人が9人もいたのだから我々以上にビックリしたことでしょう。

逮捕
あたりは急速に明るさを増しましたが、乳白色の霧で覆われ、朝日はおろか、すぐ近くに見えるはずのカフラー王のピラミッドさえ見えませんでした。
10分ほど経った頃、またひとり男が現れました。
今度は本物の警備員でした。
アラビア語で激しくわめいています。ピストルを振りかざし降りろと指示しました。
バクシーシで乗り切ろうと交渉しましたがまったくその余地なし。
ますます怒りを増すばかりでした。
これ以上の交渉は無意味と判断し、仕方なく私は「降りよう」と呼びかけました。
後で宿に戻ったとき仲間のひとり言うには、このとき銃声を聞いたそうです。
そんなことはありえないと思うのですが、もし空耳にせよそう思わせるほどの剣幕だったことは事実です。

下で待ちかねていた警備員たちによって、全員そろったところで我々はツーリストポリスに連行されました。
ツーリストポリスの薄暗い部屋に通され、壁際に全員立たされました。
みな深刻そうな顔つきでうなだれています。まるでいたずらをした中学生が職員室で立たされ、生徒指導の先生に怒られている姿のようでした。

バクシーシ
ひとりの警備員が近寄ってきて耳元でささやきました。
「バクシーシ?」バクシーシとはお金のことです。
何のことだかわからないようなふりをしてとぼけていると、男はひとりづつ聞いてまわり始めました。
バクシーシは決して払わないように皆に言い含めてあったので、何人かは肩を上げ両手を広げ、意味がわからないと大げさにジェスチャーを繰り返しました。
噂ではバクシーシを拒否していたら罰として腕立てや腹筋を命ぜられたグループもあったようです。

解放
こわもての警備員ににらまれ、我々はうなだれるという緊張した時間がしばらく続きました。
この緊張に耐えられなくなったのか仲間のひとりが突然震えだし始めました。
青ざめた顔して彼は「気分が悪い。風邪みたいだ」と訴えました。
極度の緊張状態が続くとある人は血の気がなくなって、立っていられなくなります。
以前にも同じような状況に遭遇したことがあり、風邪ではないことはわかっていました。
仲間が心配そうな顔をしています。
思わぬ展開になりましたが、これは言われるままにバクシーシ(お金)を払って解放してもらったほうがよさそうだ思い始めてきました。
どう切り出そうと考えあぐねていたところ、こわもての警備員が、こっちに来るよう合図をしました。
みな神妙な顔つきで従い、連れ出されたところは外でした。
警備員はどんどん前を歩いていきます。
ピラミッド地区の入場口まで来たところで、追い払われるように解放されました。
警備員もやっかいなことになったと思ったのでしょう。
バクシーシを払うこともなく我々は晴れて自由の身になりました。
バスに乗って窓から後ろを振り返り、あそこに登ったんだなあと小さくなったピラミッドを見て思いました。

あれから約3年になります。「登頂は今はむずかしいみたいだ」と噂が伝わってきますが、きっと今でもバックパッカーたちは安宿で有志を募って登頂を目指していることでしょう。そして警備員はバクシーシを要求する。そんなことが繰り返されていると思います。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

中国式トイレの悪夢2

生きている便
中国雲南省から外国人未開放地域を中国人に変装してヒッチハイクしていたときのことです。
夜、どうしてもトイレに行きたくなって、懐中電灯を持って外に出ました。
このあたりでは電気は夜の限られた時間しか発電していません。
だから夜中になると電灯はすべて消えてしまうので懐中電灯は必需品です。

外のトイレは高床式の小屋で、階段をのぼり、足を踏み外さないように懐中電灯を照らしながら、慎重に穴場を確認してよいしょっとまたがりました。
用を済ませ何気なく穴場を照らしたところ、ナ、何と穴場の下で光に照らされた部分が波打っているではありませんか。
「生きている?!」そんなバカなと思い、目を見開いて顔を近づけてみると・・・・うじうじうじだらけ。
正体は”うじ”の大群が懸命に泳いでいる姿でした。
まるでホラームービーの世界のようでした。

中国の奥地は下水などというものはありません。
貯めておいて後から肥やしにというのが基本のようです。

こんもり
これもヒッチハイクをしているときの話です。
バスが山あいにある街道沿いの村で停まりました。
トイレ休憩のようです。
バスは次いつ停まるかわからないので用は行けるときに済ませる、これは一度下痢で痛い目にあった自分の鉄則です。
トイレに向かう乗客の後について自分も外に出ました。

ところが公衆便所に入ってみてビックリ!
便座の中に、ナ、何とあれがこんもり積まれているではないですか。
しかも2、3人の分量ではありません。
隣にしよう、と隣に移ると、さらにそれ以上の山が・・・
覚悟を決め、勇気を出してその上にまたがりました。
ふつうにしゃがんではおしりについてしまいます。そこで、かかとを持ち上げ、やや中腰の体勢で腰を固定しました。
当然すぐに足はプルプル震えだし、ふくらはぎはパンパン。
しかし耐えるしかありませんでした。

バスに戻って、ふくらはぎを一生懸命マッサージしている私を隣の中国人は不思議そうに見ていました。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

中国式トイレの悪夢

「世界でいちばん汚いトイレは?」 と尋ねられる機会があったら(そんなのないか)、「中国!」と私は答えます。
その理由について今日はちょっと書きたいと思います。

世界には大雑把にわけると2種類のトイレ文化圏があります。
ひとつは紙でおしりを拭く紙式文化圏と、左手にすくった水で洗い流す水式文化圏です。
もちろんご存知のとおり日本は紙式文化圏です。
お隣韓国、そして中国もそうです。
実は意外なことに、東の紙式文化圏はここでおしまいです。
ここから西へはずっとギリシャに入るまで水式文化圏になります。
中国から南下するアジア諸国もほぼすべてが水式文化圏です。
なぜかキリスト教国家になると紙式に変ります。

ということは、ユーラシア大陸においては水式文化圏のほうが一般的なのです。
アフリカもイスラム教国ならまずまちがいなく水式でしょう。
ところが中南米はすべて紙式で、水式にお目にかかることはありません。

日本で水式のことを話すと「ヤダ―、キタナーイ」と言われることが多いのですが、決してそんなことはありません。
この話を始めると水式擁護論者の私は話が長くなってしまうのでまた別の機会に触れようと思います。

話を元に戻します。
まず結論から言ってしまうと、トイレ環境自体は水式文化圏のほうが絶対にきれいです。
理由は簡単、水で流してしまうからです。
紙式文化圏の代表である中国、さらにその地方は悲劇です。
これから私の体験談をまじえながらいくつか紹介していきます。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。