エベレストのオン・ザ・ロック2

チベット越えのルートは、中国南東部、雲南省というところからスタートする。
まず、そこの山深い道なき道を警察の目を盗みつつ、一路チベットの聖都ラサを目指す。
そしてラサからカトマンズへと、小さな町や村を経由しながら南下していく。
すると果てしなく広がる茶色い大地と、コバルト色の澄み切った大空を切り裂くように、敢然とヒマラヤ山脈が銀色に貫く。
そこには誰もが知るところの世界最高峰、エベレストがそびえたっている。
彼はそこを目指す。
エベレストベースキャンプという登山隊の基地があって、そこまでなら何とか車で行くことができるのだ。
そして彼がそこを目指したのには、あるロマンチックな目的があった。
とても詩的で美しく、男らしい目的が。

どんなことかというとそれは、エベレストという氷山からしたたる氷のつららをポキンと折って、それでウィスキーのオンザロックをつくり標高5000Mの極限の自然の中で、一杯やろうというものだった。

そしてそのために彼は、ベースキャンプから一人でずんずんずんずん山奥へと向かう。
理想の氷と環境を求め、やみくもに突き進んでいるそのとき、ふと足を滑らせて、4、5Mほど転落してしまった。
はっと気がつき体をとりあえず見回すが、幸いケガはなかったようだ。
しかし、今来た道のりははるか頭上でとても登れそうにない。
厳冬の冬山に一人きり。ここは世界の頂上エベレスト。
さすがに危機感を感じるが、とりあえずあたふたするのをやめて、適当な氷をさがすと、用意してきたグラスに入れてウィスキーを注ぎはじめる。

グラスの中で、カラコロとエベレストのかけらは揺れる。

そして程よく溶けかかった頃合を見計らって、ツツツっとすする。
天空の氷山で、厳格な大自然に囲まれながらすする世界最高峰のかけらは、一体どんな味がしただろう。
調子にのって何杯も何杯も飲んでいると辺りはすっかり薄暗く、おまけに風も強くなってきた。
エベレストの山中でただ一人。薄暗く、今来た道もわからない。
状況はいよいよどうにもならなくなり始めている。
考えても本当にどうにもなりそうにもないので、とうとう彼は諦めて、もうええわ、死んだれ、と雪の上に寝っ転がった。

しかし、しばらくすると本格的に体は冷えてきて、あたりはますます暗くなる。
あかん、このままやったらホンマに死んでまう、と思い直し、彼は滑り落ちてきた崖を這い上がる方法を必死にさがし始める。
そうして彼がベースキャンプに戻ったときは、もうすっかり夜だったという。
彼は、あんときはさすがに死ぬかと思ったわ、ハッハッハと笑いながらぼくに言うのだった。

ぼくは、ただただ感心してその話を聞いた。
大の大人がただ、山の氷を拾ってきてお酒を飲むと言う、言ってみれば
どうだっていいことに命を張っている。
ある意味ものすごく滑稽だ。ユーモラスだ。
それで本当に死んだら笑い話にもならんだろう。

でもぼくはその人の感性が大好きだ。
世界で一番高い氷山のかけらをグラスに浮かべる。
きっとそのかけらはウィスキーによってほどよく溶かされ、グラスの中で滑らかな輝きを放っていたことだろう。
そしてそれを標高5000Mの鋭い大気の中でゆっくりと味わうのだ。

こんな贅沢なことは決してだれもができることではない。
たとえ何億円積んだってできやしない。
いや、実際に何億も積めば簡単にできるかもしれないけど、そのときの彼の味わった氷の味は、決してお金で買えるものじゃない。
彼だけが知る特別な味わいなのだ。 お金でできることには確実に限度がある。

こういう美しい感覚を、ぼくは心から愛する。
そしてそんなことをする人が本当にいると言うことに、大いに感動してしまう。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

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