カトマンズの彼

その人と再び旅の途中で会うことはないだろうし、こちらから連絡を入れて日本で会うこともないと思うが、彼は私に強烈な印象を残したことに間違いはない。
彼と会ったのは、カトマンズに着いてもう一週間もたったある日の夕食時だった。

物価が高くて、食べるもののバリエーションの少ない西チベットから来ると、カトマンズは天国だった。
宿は1USDと少し出せば清潔な部屋に泊まれるし、食事だって、そこそこの値段で各国の料理が食べれる。
ここでは日本食も食べたし、ステーキやピザだって食べた。
ちょっと変わりどころではイスラエルレストランなんてのも行った。
旅行者街があるから、お土産もくさるほどあって、ここぞとばかりに家族や友人に買ってしまった。
街は迷路みたいで、赤レンガの街を、あてもなくカメラを持って歩くのも、それだけで楽しいものだった。
時間だけは過ぎていくが、毎日何かしらやることがあって、まだ沈没している気分にはなっていない。
そんな風にして、日々過ごしていた。

その日はネパールの祭りの日にあたっていて、地元の食堂はほとんど閉まっていた。

祭りといっても、感じは日本の正月に似ていて、みんな家で奮発しておいしいものを食べるようで、特に大きなセレモニーなどはないらしい。
そこで私も久しぶりに旅行者向けにレストランに行くことにした。
そこの店はチベット料理の店で、値段も良心的でボリュームがあると聞いたことがあったので、そこを選んだ。
正直、チベット料理は食べ飽きたが、チベットのそれよりも格段に美味しいとも聞いていて、それで行くことにした。

私は昆明からずっと一緒に旅をしているNさんと一緒に、トゥクパやらモモやら、よく名前のわからない料理やらをたらふく食べた。
実際にチベットで食べるそれよりも、はるかに美味しくて、値段も安く満足できた。

私たちは食後のお茶を飲んでいる所に彼が入ってきた。

風貌からして明らかに日本人である彼と目が合ったので、「こんにちは」と声をかけると、「御一緒していいですか?」と返ってきた。
もちろん断る理由もないので、しばらく彼の食事に付き合いながら話すことになった。
口調が柔らかくて、穏やかに話す人だった。
彼は、インドからポカラを通ってカトマンズに来たと話していた。
私とは逆のルートだ。
この旅で日本人と席を一緒にするのは初めてだと話していた。

カトマンズは日本人がやたらと多い。
バンコクのカオサンロード並みだ。
これだけ多いと日本人がいてもなんだか声をかけづらくなる。
「日本の方ですか? ちょっと時間があればお茶でものみません?」
なんて声をかける感覚は、はっきりいってナンパに近い気がする。
ところが、旅行者なんかぜんぜんいない辺境で日本人を見ると、自然とどちらからというわけでもなく、声をかけられるから不思議なものだ。
そのまま、ルートが同じだと、一緒に行動したりするからさらに不思議だ。

ちなみに私はカメラを持つようになってから、旅で誰かと一緒に行動するのが苦手になってしまった。
もちろんドミトリーでいろんな人と話すのは楽しいが、写真を撮る時は誰かに気を使っていると、じっくりと撮れないので、一人の方が気が楽だ。
そういう意味では一緒にいるNさんも写真をやるので、お互い気を使わずに一緒にいて楽である。

話がそれたが、彼はギターを弾くまねをして、ミュージシャンだと自己紹介した。
そして、シチューみたいなものを食べながら話はじめた。

『インドのリシュケシュって知ってる?
いい所だよ。なにもないけどね。
ビートルズが修行してたんだ。
ビートルズからはいろいろ影響を受けたよ。
それでジョージ・ハリスンが死んだ時に、インドに、リシュケシュに行かなきゃって
思ったの。
あそこは良かったよ。
サドゥーにギターを弾いたりもしたな。
みんなすごい喜んでくれるんだよね。
いい人たちだったな。

歳?27歳。
実はもう結婚してて、子どももいるんだ。
まだお腹のなかだけどね。
旅に出る直前にわかってね。
だからもう帰らなきゃ。
バンドは解散しちゃったけど、仕事はあるんだ。
レコーディングの仕事とかたまっちゃってるしね。』

ニューヨークで1年音楽の勉強をしていたという彼は、いわゆるミュージシャンを目指している人ではなく、ある程度成功しているプロのミュージシャンのようだった。

バンドの名前は聞かなかった。
音楽にうとい私が知っているわけがないと思ったからだ。

彼は食事を済ませるとおもむろに一服しに行きませんかと言った。
最初はよく意味がわからなかった。
どこかのカフェにでも行きたいのかと思ったが、彼が自分のホテルに向かって歩き出し、その屋上で待っててくれと言ったとき、なるほどそういうことかと理解した。

カトマンズを歩けば
『葉っぱカイマセンカ、チョットミルダケ、トモダチプライス』
なんてふうに声をかけられる。
1日5回はこの言葉を聞くような気がする。
いやもっと多いかも。
実際にそれを買うバックパッカーも多い。
だから別に彼がそれを持っていても驚きはしなかった。
ただ、それは最初だけで、彼の話を聞くうちに、私はなんだか違う次元の人と話しているような気がしてきた。

彼は部屋から道具一式を持ってきて、蝋燭の明かりのなか、慣れた手つきでそれを巻きながら、また話し始めた。

『初めてのときは中学3年生のとき。
友達の家に遊びに行ったら、その兄貴がもってて、吸ってみろって。
そしたらすごい事になっちゃって。
もうそれからずっとだね。
日本でも毎日やってるよ。
自分の家で栽培したこともある。
でもかみさんがそれだけは止めてくれって。
何で日本でそれが、あんなに厳しいのかわからないよ。
だって地球が作った物だよ。
体に悪いわけがないよ。』

私もそれを一口二口もらった。
いやもっとかもしれない。
正直に告白すれば、それをやるのは始めてではない。
以前の旅でも同じように人からもらって吸ったことはある。
しかし自分で買い求めたことはなく、詳しい知識なんてものはない。
ガンジャとハシシの区別もつかないし、巻き方も知らない。
聞くと、彼の持っている物はハシシだった。

そのまま彼はギターを弾きはじめた。
私は始めぼんやりとそれを聞いていたが、すぐにギターの音に吸い込まれていった。

完璧な演奏はギター1本とは思えないほどの存在感を持っていた。
曲はビートルズらしいが、知らない曲だった。
手の動きは女性のようにしなやかで、細く繊細に流れるように動いていた。
そう感じたのは私が朦朧としていたせいもあるが、それを抜きにしても彼の演奏はプロのそれだった。

彼は、あと1ヶ月もすれば帰国する。
旅の日程は全部で2ヶ月だと話していた。
その後の彼の生活とはどういうものだろうか。
奥さんもいて子どもも生まれ、ミュージシャンのとしての仕事もある。
しかしやはり毎日吸い続けるのだろう。
それを見て奥さんはどう思うのだろうか。
一緒に吸っているのだろうか。
そして子どもはどうなるのだろう。
やはり成長すれば父親と一緒に吸うのだろうか。
別に私が心配する義理もないが、そういう人も日本に、ごく普通にいることに驚いた。

それがいいかどうかは別として、私は法律を犯すことはしない。
しかし彼は大した抵抗もなくそれをする。
『だって地球が作った物だよ。体に悪いわけがないよ。』
その彼の言葉は全てを語っているような気がした。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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