ダライ・ラマ

「首にかけてる赤いひも、それ、一体何だよ?」

「ああ、これか。これはダラムサラにダライ・ラマに会いに行ったとき、彼からもらったものなのだよ。それ以来、常に首にかけているのだよ」

そいつはオレに赤いひものことを、そう説明した。

ダライ・ラマとはチベット仏教における最高指導者であり、チベット亡命政権の国家元首でもある。
加えて、衆生救済のためあえて涅槃に入ることを拒否し、輪廻世界に留まり続ける観音菩薩の化身であると信じられている。

ダラムサラとはインドの北部にある、山奥の小さな村のことで、ダライ・ラマがチベットからインドに亡命し、亡命政権を樹立したところだ。
オレの友達は遥かそんなところまで行ってその、観音菩薩の化身と言われる人に出会って、赤いひもを手に入れてきたのだ。
まだアジア諸国に行ったことの無かったオレには、それはとんでもないことのように思えた。
自分の住んでいる世界とは全く別世界すぎて、無関係すぎて、想像もつかない。
まるで雲をつかむような、現実味の薄い話だった。
すごいなあ、と感心するより他にしようがなかった―――

本当に尊敬できる人というのはあまり出会ったことがない。
世に聖人と呼ばれる人というのも、物質文明の横行する以前の遥か昔ならいざ知らず、今のこの、金と物の欲望によって支配されている現代社会においては、皆無に等しいのではなかろうか。

オレは、その赤いひもの友達の話に少なからず影響を受けて、いつか自分も会えるものならダライ・ラマに出会って握手をしてもらい、その赤いひもを手に入れたい、と、そう思っていた。
物欲にかられたその動機が不純だったせいなのか何なのか、何年後かにとうとうダラムサラに辿り着いたとき、折しも彼は日本訪問中で、会うことはかなわなかった。
そのときは、その皮肉っぽい偶然に我が身の不幸を嘆いたりしたものだが、実を言うとそれより以前にオレはダライ・ラマに会っていたのだ。
しかし、会っていたといってもその友達のように個人的に一対一の形ではなく、もっと多くの人達に混じった講演の場で、であって、会ったというよりはむしろ、講演に参加してその姿を目にしただけのことなのだが。
だから赤いひもはもらっていない。

ブッダガヤ、という、ブッダが悟りを開いたとされる仏教の聖地の村にオレが訪れたときのこと。
ダライ・ラマの講演が開かれるという噂は薄々耳にしていた。
しかし、いざ辿り着いてみるとそれは一週間も先のことだった。
ブッダガヤというのは聖地というだけで他に何があるわけでもなく、しかも、インドの中でも一二を争うような貧しい地域に属しているため、物資も乏しく、食べ物も粗末で、本当にすることなんて何もなく、聖地巡りなんかも一日もあれば十分なのだが、友達の話に影響を受けていたオレは、どうしても彼の姿を見ておきたくて、耐えてそこで待つことにした。
今思い返してみても、その一週間をどうやって過ごしたのか全く覚えていない。何にも思い出せない。
それほど無為に過ごしていたのだろう。
他の町ならまだ誰がしか日本人などに出会って暇を潰せるものなのだが、そのときは、たった一人だったため、毎日をどうやって過ごしていたのかなんにも覚えていないのだ。
一週間もの間、なんにもない村で、一体一人で何をしていたのだろう?
よっぽど無駄に過ごしていたんだろうな。
今考えると一週間も一人で何もせずに過ごすだなんて、ちょっと不思議な気がする。
日本での生活と比較すると、やっぱりあり得ない話だ。

ともかく、一週間が過ぎていよいよ講演の日が訪れた。
村もチベット色一色に染まり、多くのチベタンの姿が見受けられる。
何か月か前、チベットで過ごしてきた日々のことが懐かしく思い出され、胸がざわめいた。
広い会場には天幕が敷かれ、仕切りの中には蓙が敷き詰められている。
その敷地内にダライ・ラマを一目見んとする人達が、ひしめき合っている。
多くは、あの、赤紫色の袈裟を着たチベット人なのだが、中にはぼくのような旅行者とおぼしき外国人の姿もちらほら見受けられる。
よく見ると、どうも会場はエリア別に振り分けられているらしく、ぼくの周りは外国人ばかりだった。
ぼくの目の前にいた背の高い西洋人は、チベタンと同じ風体で、赤紫色の袈裟まで着込んでかなり気合いが入っている。
隣のエリアにはチベット人たちが、座るスペースもないぐらいに押し込められている。

いよいよダライ・ラマの登場だ。
ステイジの上ではお付きの人達がマントラを唱え始める。
荘厳で厳粛な空気が会場を包む。
すると、チベタンエリアのチベタンたちはあんな狭い中、一体どうやってしているのか不思議なのだが、いっせいに五体投地を始めた。
五体投地というのはチベット仏教の独特のお祈り方法で、その名の通り全身をヘッドスライディングのように地面に投げ出して祈りを捧げるのだ。
今や、彼らにとって最も貴い人があらわれようとしているのだから、彼らがその五体投地をするのは当然といえば当然のことなのだが、それを見ていたぼくの目の前のチベットかぶれの、袈裟を着込んだ西洋人までもが彼らに遅れまい、と、真似して五体投地をやり始める。
そして彼が地面にひれ伏すその度に、座っているぼくの顔にひらひらした袈裟の端がぴちぴちと当たるのだ。
ぼくはそういうアジアかぶれの外人があまり好きではないので、本当にそいつをうっとうしく思っていたのだが、そいつは、ぼくのそんな思いなどまるっきりおかまいなしで黙々と五体投地をし続けるのだった。
やれやれ、と思っていると、いよいよダライ・ラマの登場だ。
ぼくはさすがに緊張し、目の前のうっとうしい外人のことなどすっかり忘れて彼が現れるのを息を呑んで待ち続けた。

そして。
とうとうその人が姿を現した。

と、思わずこけそうになった。
だって、普通のおっさんなんだもん。
びっくりした。
もっと、鯱張った難しそうな人が威厳をたたえて出てくるのかと思ったら、普通のおっさんがニコニコしながら現れるんだもん。
あまりに想像と違ったんで、ぼくはしばらくの間放心していました。

更に講演が始まると、オールチベット語で、何言ってるのか一言たりとも分からなかった。
それまた度胆を抜かれたんだけど。
でも大多数のチベタンたちは、彼のいう一言一言に反応し、笑ったり、感嘆の吐息を洩らしたりしているのでした。
予想に反して、始終和やかで、ユーモラスな感じの講演模様となったのです。
でも、それは、すごく心地の良い感じでした。
厳めしい、説教くさいものでなく、もっと対等で、フレンドリーなものだったのだ。

そこでぼくは、思ったね。
ああ、この人は聖人なのだ、と。
こういう人こそが聖人と呼ばれるべき存在なのだ、と。
自分を捨てて、人のために生きる、彼からは、そんなものを感じました。
とても素晴らしいことだ、と思いました。

だって、ぼくの友達みたいな、その辺の一般ピープルにまでいちいち握手してくれて、首にひもをかけてくれるんだぜ。
過去、そんなことを何百回、何千回、繰り返してきたか分かんないのに、それでも嫌な表情ひとつ見せずに、喜んで応じてくれる。
ぼくはその後、その赤いひもをもらった人に何人か出会ったが、みんながみんな、ダライ・ラマはやさしく微笑んでひもをかけて下すった、と、口を揃えて言っていた。
それは決して作り笑いの営業スマイルなどではなく、本心から目の前のその人の幸せを願っての笑顔なのだ。
そういう人なのだ。
他人のために生きられる人なのだ。
そのことは講演を聴いていて、あの、チベタンたちのくつろいだ明るい表情を目の当たりにしているため、すんなりと違和感なく確信することができるのだった。
それは、心の中から自然に湧き出てくるような確信だった。
だからぼくはあの人を現代に生きる聖人なのだ、と思うのだ。
尊敬してしまう………

人のために生きるなんて事は、そうそうできるものではない。
そんなことができるのは、ごく限られた、一部の人だけだ、とぼくは思う。
でも、ダライ・ラマがそうであったように、聖なる人、というのは、実はそんな厳めしいものでもなんでもなく、もっと自然な、その辺で普通のことを普通に営んでいるような人達のことを言うのかもしれない。
悟りを開いてる人なんてのは、じつは、最も平凡に毎日を暮らしている人なのかもしれない。
普通のことを普通にし続ける才能のある人のことを言うのかもしれない。

多分、ダライ・ラマ、という人は、自分の信じたことを、こうだ、と思ったことを普通に、自然に、することのできる人なんだな。
自分を信じるだけの強さを持った人なのだ。
当たり前のことを、当たり前にできる人なのだ。

ぼくは自分を信じていない。
この世の中で一番信じられないのは、自分自身だ。
自分が信じられないので、他人も信じられない。
当たり前のことが当たり前にできない、欠陥を持った人間なのだ。
だから、ぼくは、ダライ・ラマのような人に憧れる。
ちょっとでも、彼のような強さが持てたなら、と思う。
そうすれば、みんなにやさしくできるのに。
ぼくのまわりの人を、愛する人を、傷つけなくても済むのに。
ぼくは、人にやさしくしたい。
人を愛せるようになりたい。
まわりの人に嫌な思いをさせるのは、もう、まっぴらごめんだ。

ダライ・ラマのように、笑顔でみんなを笑わせて、人の心を明るくしたい。
人のために生きられるようになりたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

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