旅のルール

私の旅は迷路の中の行き止まりにぶつかってしまったみたいに、行き詰まっていた。

その行き詰まりは、婚約者を失ったという気持ちの問題もあるが、実際に行き詰まっていた。
それは一体どこからアフリカ大陸の第一歩を踏む出すかということである。

もともとギリシャからフェリーに乗り、エジプトへ渡る予定だった。
しかしエジプト行きのフェリーは存在しなかった。
それが冬季のためなのか、もう廃線となってしまったのかはわからなかったが、とにかく存在しなかった。
なので航路を使うとすれば、まずイスラエルに船で渡り、そこから陸路でエジプトに入ることになる。
アメリカとイラクの戦争がいつ始まるかわからない今、イスラエルに行くことは気の進む話ではなかった。
前回の湾岸戦争では、イラクがイスラエルにミサイルを飛ばしている。

イタリアからアフリカのチェニジア行きのフェリーが運行していて、そのルートも考えたが、その後、隣国のビザが取れるかどうかわからず、そこで身動きがとれなくなる可能性があった。
もう一つはスペインまで行き、モロッコに入るルートも悪くはないと思った。
実際モロッコは魅力的だ。
しかしそこからケニアまでの道は遠い。
私はすでにトルコからケニアの日本大使館に、アフリカ南部で使う予定のテントと、大量のフィルムを送っていた。
だからどうしてもケニアには行かなくてはいけない。
モロッコからケニアまで陸路で横断するとして、その途中の国々のビザの問題をクリアできるのかが不安だった。

結局どちらにしろ、行かなければわからないことが多かった。
とはいえ、物価の高いイタリアでゆっくり考える余裕もなく、なによりエミが去った
後、一人でローマに留まるのが嫌だった。

私はエミを送り出した次の日に移動を開始した。
結局、ギリシャからイスラエル、そしてエジプトのルートを選択した。
まずはバーリに行って、そこからギリシャ行きのフェリーに乗った。
来た道とまったく同じルートで引き返すのも芸がないと思ったが、予想以上にイタリアでお金を使ってしまい、早く物価の安いエリアに入りたかった。

イタリアまで行ったからには、もっとヨーロッパを見たいという気持ちはあった。
フランスやドイツ、スペインだってすぐに行ける距離だ。
なによりポルトガルまで行けば、ユーラシア大陸を横断したことになる。
でも私はそれをしなかった。
今は、お金さえあれば、ゆったりまわれるヨーロッパではなく、もっとキツイ旅といえばいいのだろうか、そういうものを求めていた。
それはエミを失ったからそう思うのはよくわかっていた。
きっとヨーロッパはまた来れるし、仕事の休暇を利用した短期旅行でも十分楽しめそうだ。
そうでなくて、今しか行けないところに行きたかった。
だから、迷うことなくアフリカを目指したのだ。

アテネまで引き返して、早速フェリーのチケットを探した。
イスラエルに行くにはまず、地中海の南キプロス共和国まで行かなければならない。

そして、南キプロスからイスラエルの船は確かに存在したが、肝心の南キプロスまでの船が夏季しかなかった。
何件か旅行代理店をまわったが、答えは同じだった。
そのうちの一件は、わざわざ南キプロスの政府観光局みたいなところに電話して確認してくれたが、船があるのは夏だけだった。

悪いことは続くものだと思った。

私にはもう、トルコまで戻るルートしか残されていなかった。
そこから陸をつたって、エジプトに入るしかない。

仕方なしに駅まで行って、イスタンブール行きのチケットを探した。
すると直通列車はないので、まずはテッサロニキまで行けという。
バスは直通があったが、それは週に1便しかなく、それまで待っていられなかった。

結局翌日のテッサロニキまでのチケットを取って宿に戻った。

次の日安宿のベッドで目を覚ます。
時計を見るとすでに8時をゆうにまわっている。
列車は8時30分だ。
やってしまった。
今からパッキングして駅に向かってもとうてい間に合わない。
私はその日の出発をあきらめた。
『俺は何をやっているんだろう』
そんな事を思う。
旅に出て以来、こんなことは初めてだった。

昼くらいに無理を承知で駅に行き、
『今日の列車に乗り遅れてしまったので、明日の便に変更してくだい』
と窓口を訪ねた。
応対した40代の男性は面倒くさそうに、
『それは可能だが、ペナルティーが必要だ』
と言う。
『それはいくらですか』
と聞くと、
うーんと少し考えてから、
『7ユーロ(約910円)だ』
と答えた。
私は、彼が値段を言うのに、少し考えた時間があったのと、ペナルティーの7ユーロ
が、テッサロニキまでの料金の14ユーロの、ちょうど半分だったことで、
『これは彼のポケットに入るお金だ』
とすぐに直感した。
つまりは賄賂だ。

だったらと思って、
『私はもう長く旅をしていて、あまり手持ちの金がない。少し負けてくれませんか』

と言うと、すぐに5ユーロまで下がった。
それで手をうとうとした。
ツーリストポリスに頼むなり、何らかの方法をとれば、おそらくただでチケットを書き換えてくれるだろうが、今はそんな面倒なこをする気になれなかった。
そういう気力がなかったのだ。
5ユーロを払おうとすると、
『隣のカウンターで払ってくれ』
と言う。
しかし隣のカウンターには誰もいなくて、少し待たされた。
15分ほどして、そのカウンターにまた違う男が来た。
私は二人分の賄賂を請求されるのではないかと、内心弱気になっていた。
しかし新しいチケットを買わされて、丸々損するよりはましかと思って、また同じことを尋ねてみた。
するとその男は何も言わずにあっさりと無料でチケットを明日の便に書き換えてくれた。

次の日も、やはり起きられなかった。
しかし急いで支度をして、なんとか列車に乗ることはできた。
エミが去って以来、夜は眠れず、そして長い。

列車の窓からの景色は雪だった。
前の日、アテネでは雨だったが、この辺りでは雪だったのだろう。
そして時折見える、名前も知らない山々も雪で輝いている。
それは見たこともないが、アルプス山脈みたいだなと思った。

テッサロニキには昼の2時30分くらいに着いた。
ここもやはり寒い。
すぐにインフォメーションでイスタンブール行き列車を聞いたが、翌日の早朝までないという。
何という乗り継ぎのわるさだ。
そこでバス会社のオフィスを教えてもらい行ってみると、イスタンブール行きのバスはあるにはあるが、深夜の2時30分だという。
12時間後である。
その時間まで待つのもつらい。
仕方なく、翌朝の列車で行くつもりで、ホテルを探し歩いた。
しかしどうしても、安い宿が見つからない。
一番安かったところで、20ユーロ(約2600円)だった。
列車とバスの料金は、若干バスのほうが安いがほとんど変わらない。
しかし、列車で行くとすれば、宿代がかかる。
私はその宿代が惜しかった。
金がないわけではないが、イタリアでかなり使ってしまい、やはり20ユーロは惜しかった。
私はそれをけちって深夜のバスで行くことに決めた。

まずは荷物を駅で預け、少しだけ街を歩いた。
別にどこかを観光するつもりはなかった。
第一ガイドブックも地図もない。
インフォメーションに行けば貰えるのだろうが、列車やバスのことを聞きに何回もそこに行き、かなり嫌な顔をされたので、またそこに行くのも面倒だった。
寒空のなかを1時間ほど歩き、また駅に戻った。
その構内にある、ファーストフードともカフェとも呼べるような店で、残りの時間をつぶした。
いったい何時間そこにいたのだろう。

その一角に座って、私と同じように、列車やバスを待つ人たちを眺めていた。
それは飽きることがなかった。

中年の夫婦らしき男女が、どういう理由かはわからないが、言い争いをしている。
口喧嘩を通り越し、さらに興奮して、しまいには男がコップに入ったビールを、女に投げつけるようにかけた。
その後、男が殴り出すのではないかと思ったが、そこで友人らしい男が仲介に入った。
女はビールをかけられても平然としている。
結婚をしても、うまくいかない例というのは、世界中どこの国にでもあるのだなと思った。

黒いジャンパーを着た白髪まじりの40代の中華系の男が、手前に持った箱に、ラジ
オやボールペン、携帯電話のケースやぬいぐるみなどを、これでもかというほど詰め込んで、歩いている。
そしてテーブルを一つ一つまわって売り歩く。
客は興味を示して手に持ったりするが、売れている様子はなかった。
とても旨みのある商売とは思えない。
ボスみたいな存在がいて、売り上げのほとんどを持っていかれるのではないだろうか。
そんなどうでもいいようなことを考えた。

少年の物乞いも、何度も私のテーブルにやってきた。
いや、物乞いというよりはストリートチルドレンなのかもしれない。
実際に、彼に住む家がないとしたら、この寒さでは体にこたえるだろう。

ヨーロッパにもやはり物乞いはいた。
アテネの中心から近いオモニア広場に、いつも犬を2匹連れている物乞いがいた。
40歳くらいの男性だった。
2匹の犬は、彼の隣でおとなしく座っている。
夜にそこを通ると、シートの上で男は犬と一緒に寝ていた。
彼は、その犬のえさをどうしているのだろうか。
その犬は勝手にどっかから探してくるのだろうか。
だったら、なぜ、その男性の側を離れないのだろうか。
そんなことを考えた。

イタリアのローマのテルミニ駅にいた物乞いのことをもよく覚えている。
駅近くの交差点でいつも見かけた。
長髪で髭が伸びていたが、まだ青年だった。
私と同じくらいの年かもしれない。
彼の座っているそのシートの下には、何か黒いものがあった。
それがバックパックだとわかったときには、私は何か恐ろしいものを感じた。
彼の国籍はわからないが、放浪の末に、そういう境遇になってしまったのかもしれない。
もし、私も永遠に旅を続ければ、いつかああなってしまうのだろうか。
そんなことを想像すると、無性に何か見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がした。

カプチーノを飲みながら、何時間もそこに座っていた。
そして結局自分にとってはどうでもよく、関係のないことを、他人事のように考えていた。
まるで自分が行き場のない家出少年みたいに思えた。

エミのことを考える。
私は身軽になった。
これでもう1年で帰国するという彼女との約束も無効だ。
金の続く限り、どこへでも行けるし、いや、金がなくなればどこかで働けばいい。
そんなことを強引に思ってみる。
そしてただ虚しさと危うさだけが、胸にざらざらと残る。

エミを失ったことは、自分にとって、心と体の半分を持っていかれたような感覚だった。
私は、まるで地に足のつかない、ふらふらしていて、吹けば飛ぶような存在になっている。

突然、
『もう帰ろうか』
という気持ちが頭をかすめる。
『もう十分じゃないか』
何度もそう思った。
あとは、帰国して仕事を見つけ、友人たちと飲みに行ったり、遊びに行ったりして、平和に暮らそうかと考える。
それは、今の私にとって、やたらと魅力的だ。

私の旅にはこれといった目的がない。
ただルールがあった。
香港から南アフリカの喜望峰まで陸路と航路で行くというものだ。
目的地を決めたのは、あてもなくふらふらとさ迷う旅をしたくなかったからだ。
別にそういう旅を否定はしない。
ただ、自分には向いていない。
だから目的地とルールを決めた。
いや、香港から南アフリカの喜望峰まで陸路と航路で行くというそれが、ほとんど唯一の目的と言っても差し支えないかもしれない。
そんなことは、時間と金と体力があれば、誰だってできることはわかっていた。
でもそれを実行すると決めたのは自分だった。

旅のルールというものがなければ、エミを失った時点で帰国したかもしれない。
別に彼女を追いかけるのではなく、日本で仕事を探し、ごく平凡に暮らすためだ。
それは悪くないどころか、懐かしい感じさえする。

でもやはり私は旅を降りれなかった。
もしそれをしてしまったら、エミを失ったことと、同じくらい大切な、自分を形作る何かを失ってしまうような気がした。
自分の核となるものを失ってしまいかねないと思った。
だから行くしかない。
もう、それしかなかった。

闇の中をイスタンブールに向かってバスは走った。
そして私もまた、闇の中を手探りで走っているのだと感じた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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