愛情表現

「ヤァ、サトシ。どうよ、キマッた? ハハハハハァ」

智の頬を軽く叩きながら一希は智の横に座り込んだ。そして智の肩に手を回すと、顔を覗き込んだ。切れそうに冷たい視線が智を見つめている。すると突然、一希は、智の唇に唇を押し付けた。智は驚いて声も出ない。必死に振りほどこうとするが、体を離すことができない。一希の舌が智の口の中を激しく掻き回す。何故か脳裏に岳志の笑った顔が浮かんできた。

「ああ、何してんだよ、一希! 止めろよ、智は駄目だって」

ようやく一希の行動に気が付いた心路が、慌てて一希の体を智から引き離した。一希は、心路に肩を持たれて唇を拭いながら智から離れて行く。智を見るその鋭い視線は、わずかに微笑んでいた。

「大丈夫か、智?」

智は、放心したまま何度も頷いた。

「ごめんな、智。こいつゴアにいる時から、ずっとこうなんだよ。キマッてくると誰彼構わず、見境いなくキスしだすんだ。こいつなりの愛情表現らしいんだが、俺もふいを突かれて二三回餌食になっちまった。ほら、一希、謝れよ、智に」
「ハハハハハハハァ、なかなかいい味だったぜ、サトシ」

一希は、大声で笑いながら智にウィンクをした。

マニカランからマナリーに戻った智は、すぐさまオールド・マナリーへと向かった。オールド・マナリーの一本道を歩いていると、すぐに、ベーカリーのテラスでチャイを飲んでいた心路と再会した。そのとき心路と一緒にいたのが一希だったのだ。心路と一希は、ゴアにいる頃からの知り合いで、最近ここで再会したのだそうだ。

智は、一希を見たとき反射的にジャイサルメールでのことを思い出し、マズイ、と思ったが、今さら知らない振りをすることもできず、そのまま心路の部屋で再会を祝してヘロインをやることになったのだった。

始めは厳しかった智に対する一希の態度も、どうやらそれが一希なりの他人との接し方だったようで、特に智に対して敵対心を抱いていた訳ではないらしい。いきなりキスをされたのには驚いたが、心路が言うには、それが一希なりの愛情表現なのだそうだ。智は、明らかに敵対心を剥き出しにしたジャイサルメールでの一希の態度を思い出し、それが今、自分に対して親愛の情を抱くまでに変化しているのだとしたら、それはひょっとすると一希の心が、理見に振られた者同士、どこかで自分と連帯意識のようなものを抱き始めているからなのかも知れない、と、心の中で勝手に推理した。そしてその推測は、あながち的を外れている訳でもないようで、一希は、理見を口汚く罵っては、いちいち智に対して同意を求めた。智は、愛想笑いを浮かべながらそれに応じてはいたものの、お前は、理見と散々セックスをしたのだからそれだけでも十分ではないか、という思いが心の中でどうしても拭い切れないでいた。

激しい嫉妬

――― 理見は、最後に俺の部屋へ来たあの時、まだ一希とやってはいなかったのだ。てっきりもう一希とはそういう関係になっているものとばかり思っていたのに……。それが、自分がブラウンを吸わせたばっかりにそれを手助けすることになってしまって……。あの日、微笑みながらジャイサルメールの雑踏に姿を消した理見……。俺の頬をそっと撫でてくれたときの理見のあの表情、冷たい指先……。それら全ての美しい思い出が、全部、こんな下衆な野郎に汚されてしまった……。ああ、こいつの蛇のようなあの舌は、理見の全身を舐め尽くしているのだ……。理見の肉の味を知っているのだ…… ―――   

智は、心の中で思っていることとは裏腹に、作り笑いを浮かべながら一希の話を聞いていた。一希は、そんな智を嘲笑うかのように見返して、再び話し始める。

「だけどな、それからプネーに行ったらさ、何だか、前の男だとかいう奴が現われやがってよ、あいつ、そいつについて行っちまったんだよ。今頃そいつとやりまくってる頃なんじゃねぇのかな。本当、何考えてんのか分かんないぜ、あの女だけは。まあ、でも、別れる前の晩も散々やってやったし、俺にとっては儲けもんだったがな。あのビッチ、年の割りにはいい体してやがったし、また、全身で絡み付いてくるような感じでいい声出しやがるんだよ。ハハハ、最高だったよ」

そう言いながら一希は、全身をくねらせた。一希のその様子を見ながら心路は、何してんだよ、カズキ、気持ち悪ぃからやめろよ、と一希の肩を軽く叩いた。一希は、ハハハハハ、と笑いながら、そのまま横向きに床へ倒れ込んだ。智は、理見が一希に抱かれながら悶絶している所を想像し、激しい嫉妬にかられながらも沸き起こる性的興奮を抑えられなかった。そしてもし自分が一希の立場だったなら、と仮定して、より一層興奮を高めた。 一希は、床に倒れ込みながらヘロインの包みを智の方へ放った。

「ほら、お前もやれよ。理見みたいにぐにゃぐにゃになっちまえよ、クックック……ハハハハハァ」

一希が大声で笑うと、心路もそれに釣られて笑い始めた。お前、何笑ってんだよ、などと言いながら、二人でじゃれ合っている。智も、一人だけ笑わないでいるのはおかしいような気がして、ハハハハ、と、全くおかしくも何ともないのに無理矢理笑った。すると一希が、急に真顔になって、お前は笑わなくていいから早くそれやれよ、と智に言った。一希に続いて心路も、智、ほら、久しぶりに一緒にキメようぜ、と笑いながら智に言った。智は、二人に気を遣いながら、じゃあ……、と言って紙包みを開けた。そこにはヘロインの白い粉がこんもりと盛られていた。

智は岳志の話を思い出した。岳志のあの話を聞いてから、何となくヘロインはもう止めよう、と思っていた。何だかそれがとても下らないことのように思えたからだ。しかし今、再びそれを目の前にして、今まさにそれを吸入しようとしている……。

「何だよ、何、ボーッとしてんだよ。早くやれよ、お前」

一希が智を怒鳴りつけた。

「あ、ああ。分かった……」

智は、テーブルの上に置いてあった耳かきを手に取ると、ひと掻きすくって一気に鼻から吸引した。久しぶりに吸ったヘロインは、素早く智の体に溶け込んだ。まるで細胞の一つ一つにまで染み込んで行くようだった。

「あ、ああ……」

もたれている壁の中へ智はぐったりと沈み込んだ。そんな智の様子を眺めながら、一希はフラフラと智の方へ近寄った。

優越感

一希は、テーブルの上に散らばったヘロインの粉を掻き集めて鼻から吸い込んでいる。その様子をぼんやりと智は眺めていた。心路は、欠伸をしながら智の顔を見つめている。

「どうしたの、智、その顔。ひょっとして、またやられた? あいつらに」

心路は、そう言いながら灰皿の上に乗せられたジョイントを手に取ると、ゆっくりとそれを口に運んだ。

「え? いや……、これは、違うんだ……。前にやられた時の傷が、まだ治ってなくって……」

心路にそう尋ねられた時、ヤスとゲンの顔が反射的に智の脳裏に浮かび、ごまかそうとして智はとっさに嘘をついた。ヤスが、もし直規と心路に告げ口をしたら、お前の家までおしかけてやるからな、と言っていたのを思い出す。

「ふうん、そうなんだ……。俺にはどうも新しい傷のように見えるんだけど……。まあ、いいか。智がそう言うんなら……。でも、もしまたあいつらに何かされてるんだったら、ちゃんと言うんだぜ。俺がまたきっちり仕返ししてやるからさ」

心路は、微笑みながらそう言った。

一希は、ヘロインを吸い込めるだけ吸い込むと、溜め息をつきながらテーブルから顔を上げた。そしてしばらくの間、効き目を確かめるように、じっと目を閉じた。

「智って確か、ジャイサルメールで俺と会ってるよね。よう、もう俺のこと知らないなんて言わせないぜ」

一希は、その真っ直ぐな、肩まで伸びた長い髪を掻き上げながらそう言った。智を見るその視線は、智に対する優越感の籠った、ある独特の輝きを放っていた。

「ああ、そう言えば、会ってるよね。確か、ジャイサルメールで……」

当時のことを思い出し、恐怖と恥ずかしさの入り交じった複雑な気持ちで智はそう答えた。

「ククク、お前、確か、理見のこと口説こうとしてたじゃない? ハハハ、あの時さ」

智の心の中にジャイサルメールにいた時の苦い思い出が、まざまざと甦ってくる。

「馬鹿だよな。俺とプネー行くってのにさ。それにお前、あの女がどんな女なのか全然知らないだろ? どうなったか教えてやろうか? あの後のことを。知りたいだろ?」

一希は、心路からジョイントを受け取りながら鋭い目付きで智を睨んだ。その迫力に圧倒されて、智は無言で二三度頷いた。口の端から押し殺されたような笑い声を洩らしながら、一希はジョイントを一服大きく吸い込んだ。そして濃い煙を、細く、ゆっくりと吐き出しながら話し始める。煙は、まるで紫の龍のように、うねりながら一希の全身に絡みつく。

「お前さ、俺達がプネー行くって日に、理見にブラウン吸わせたろ? あいつ、もう出発するって時にフラフラになって帰ってきやがってさ。帰ってきた途端、ベッドに倒れこんだまま眠っちまって、結局その日は出発できなかったんだよ。その後二三日はそのままダラダラと過ごすことになったんだけど……。よう、お前のおかげで理見とやれたんだぜ。あいつ、それまで絶対やらせてくれなかったからな。お前が理見にブラウン吸わせてくれたおかげで、素直に股開きやがったぜ、あのビッチ」

一希は、赤い蛇のような舌で唇を舐めた。一希のその話を聞いて、智は愕然となった。—–

息子

チャラスでキマッていた所に突然強いアルコールを流し込んだせいか、智は、再び目の前がフラフラし始めてきた。体全体に一気にアルコールが回ったようだ。まるで魚眼レンズで覗いたみたいに全ての物が丸く見え、耳に入って来る音といえば全てが反響して混ざり合い、一体何が何なのか全く分からない。しかしそれは智に限ったことではないらしく、周りを見渡すとババを始め、多くの男達はしたたか酔っ払っているようだった。皆、目が座っており、半分眠っているような曖昧な動作を繰り返している。

一般的にインド人は、普段酒を飲みつけないため酒に弱く、飲めばすぐに酔っ払う。そして酒癖が悪い。インド人は、もともと暴力とは無縁の性格をしているものだが、酔うと、内に秘めた暴力性が刺激されるのか乱暴になる者が多いのだ。しかし幸いここにいる人達は、そういう性質ではないのか、あるいはもっと酒に弱いのか、ほぼ全員、酔い潰れてしまっている。完全に眠っている者も何人かいるようだ。ただ、智の目の前にいるババだけは、目が据わってはいるものの、何とか正気を保っているようだった。智は、にっこりとババに微笑みかけた。ババも智に微笑み返した。するとババは、酒瓶とグラスを手に持ってフラフラと覚束ない足取りで、智と岳志の間に強引に割って入った。そしてめいめいのグラスに酒を注ぎ足すと「ユー・アール・マイ・サン」と言って、二人の肩を抱いた。智は、突然のババのその行動に少し戸惑いを覚えたが”お前達はわしの息子なのだ”というその言葉に、何故だか分からないが胸の熱くなる思いがした。成る程、私はあなたの息子です、と思わざるを得ないような力強さが、その言葉には込められていた……。

次の日、智は一人でマナリーに戻ることにした。岳志は、もうしばらくマニカランに滞在し、アナンと二人でマニカラン・コーヒーショップの拡大計画を練り上げるのだそうだ。ひょっとしたらマナリーに戻って久しぶりにパーティに行ってみることになるかも知れないけれど、どちらにしろ、もう二三週間先のことになるという。従って、智と会うのもこれで最後になるだろう。その頃には智は、インドを出国してパキスタンにいる筈だ。

智は、やはり皆との別れを寂しく思った。別れ際、自然と岳志の体を抱きしめた。岳志の、細く、引き締まった肉体の感触を体に感じながら、岳志とアナンの計画が上手く行けばいい、と智は思った。ヒマーチャル・プラデシュ州一帯に、マニカラン・コーヒーショップの看板が立ち並ぶことを想像した。

アナンとプレマの二人も、智が去っていくのをとても残念そうに見送った。きっとまた来てくれよ、と代わる代わる智を抱きしめ、更にその瞳には涙が浮かんでいた。それに釣られて智も、瞳の奥から自然と涙が溢れてくるのを感じた。

智のことを自分の息子と呼んだクレイジーなあのババは、その時姿を見せなかった。アナン達に聞いても、どこにいるか分からないと言う。でも、いつもそんな感じなので、また突然ふらっと姿を見せるだろうということだ。ただ、その時がいつになるかは誰にも分からない。明日かも知れないし、一年後かも知れない。智は、立ち去る前にもう一度ババに会っておきたかったが、自由気ままに生きるババのことなので、それは仕方のないこととして諦めた。むしろ、その方がババらしくて良いことだ、と自分を納得させることにした。

全く見も知らない国の、人種も、話す言葉も何もかも違う赤の他人の自分のことを「息子」と呼んだババのことを、恐らくずっと忘れることはないだろう。そう思いながら、智は、思い出深いマニカランの地を後にした。

怪し気な色

自分の隣に座っている男から智がチラムを受け取っていると、突然大声でババがアナンを呼んだ。

「アナン、ウナ・ナンバルワンを持って来てくれ!」

ババは、いかにもインド人らしく、ナンバーワンのアールの部分を強調して、ナンバルワン、と発音し、岳志の言っていた例のインチキ臭いウィスキーをアナンに催促した。アナンは、OK、ババジ、とそれに答えると、ウナ・ナンバーワンのボトルを三本、テーブルの上に運んできた。

運ばれてきたそのボトルは、一見瓶のようだったが実はプラスティックでできており、中で揺れている琥珀色の液体も一見ウィスキーのような色はしていたが、良く見てみるといかにも人工の着色料で染め上げたような毒々しい色彩を帯びていた。智は、意味ありげな笑みを浮かべながら岳志の肩を突ついた。

「これが例の、ウナ・ナンバーワン、ですか……」

岳志は無言で頷いた。

「ああ。怪し気な色してるだろ? でも、飲んでみるとこれが案外いけるもんなんだぜ」 瓶を一本手にしながら岳志はそう言った。ババは、早速栓を開けてなみなみとその液体をグラスに注ぎ込んでいる。

「どう、智、飲んでみる?」

岳志は、栓を捻ってボトルの口を智の前に置かれたグラスの上に差し出した。

「えっ、ああ、じゃあ、一応、頂きます……」

グラスに人工的な琥珀色の液体が注がれていく。智は一口それに口をつけた。ウィスキーとは全く違う、強いて言えば安物の焼酎のような強いアルコールの刺激が口の中いっぱいに広がる。智は、決して酒に強い方ではないし、また、好んで飲むということもしなかったため、とてもその味をうまいものだとは思えなかった。

「うわっ、これは何か妙な味ですね。決してウィスキーの味ではないと思います」

顔をしかめながら智はそう言った。

「最初はそう思うかもな。でも、慣れてくるとだんだんうまく思えてくるものなんだぜ」 そう言いながら岳志は、自分のグラスに注がれたウナ・ナンバーワンを一息に、ぐいと飲み干した。岳志は酒も強いらしく、そんな調子で次々とグラスを空けていく。

「凄いですね、岳志さん。お酒も強いんですね。しかも、こんな味の酒をよく何杯も飲めるものですね」
「ハハハ、だから、慣れたらおいしいんだって。それにインドにいると、めっきり酒を飲む機会が無くなるからさ。久々に飲むとどんな酒だろうがおいしくって、ついつい飲み過ぎてしまうんだ。たいてい次の日はひどい二日酔いだよ」
「成る程ね。インドにいるとあまりお酒を飲めないですもんね。お酒を売ってる所自体が少なくて、ツーリスト向けのレストランにたまに置いてあるぐらいですから……。俺は、あんまりお酒を飲まないから、例え飲めなくってもそれほど苦にはならないですけど、飲む人にとっては結構辛いことなんでしょうね」
「うん、そうだね。俺にとっては結構辛いことかな。まあ、チャラスがあるからいいんだけど、やっぱりたまには一杯やりたくなるものなんだよな。できれば良く冷えたビールが飲みたいんだけど、インドではまず無理だね。ビールはあっても、ちゃんと冷えてるのなんて滅多にないから」

岳志は、冷えたビールの味を思い出すように遠くを見つめながらそう言うと、ウナ・ナンバーワンをちびりと一口啜った。

一番美しいもの

皆がカレーを食べ終わった頃、一斉にボンが始まった。あちこちでジョイントが巻かれ、岳志のクリスタルのチラムと智のイタリアンチラムは、人々の間をフル稼働で駆け巡った。次から次へと回ってくるチラムやジョイントを吸い続け、智の意識は、次第に曖昧になっていく……。

智の斜め前にある長椅子に座った思慮深げな表情をしたインド人男性が、眉間に皺を寄せながらジョイントを巻いている。その手付きはとても鮮やかなもので、ひょっとしたら智が今まで見てきた中で一番美しいものかもしれなかった。理見や建、それに岳志以上に彼の手付きは美しい。キングサイズのペーパーを二枚張り合わせ、あらかじめ糊をつけられた部分を丁寧に切り取ると、チャラスを混ぜた煙草の葉をちょうどペーパー一枚分の厚さで巻いていく。そして巻き終わった後の紙の余白に火をつけて燃やしてしまう。大きな炎がジョイントを包み込むのだが、不思議とジョイント本体は少しも焦げてはいない。智は、霞む目でぼんやりとその光景を眺めていた。彼がジョイントに火をつけたとき、まるでその炎が彼の指先から吹き出しているようで、智は、放心しながらそれを眺め続けた。頭の中では、取り留めもないイメージが徐々に形作られていく ―――   

――― 誰もいない昼間の公園。積み木で遊ぶのに飽きた俺は、一人、いつもの公園に駆けてきた。婆ちゃんは、慌てて後ろから追いかけてくる。サッちゃん、サッちゃん、と俺を呼びながら……。あれ? 誰か倒れているぞ? 驚いたように男はこちらを眺めている……。追いついてきた婆ちゃんに抱きかかえられながら、俺はその男を眺め続けた。よく見ると、そいつは、きょとんとした表情で俺を見ているそいつは……、ああ、それは、俺だ……、マニカラン・コーヒーショップでチャラスを吸っていた、俺自身だ…… ―――   

いきなり辺りの喧噪が大音量で耳に飛び込んできた。智は驚いて周りを見回した。さっきジョイントを巻いていた智の斜め前にいたあの男は、巻き上がったそのジョイントに火をつけている所だった。状況から察する所、智が、心象の風景の中に意識を奪われていたのは、ほんの一瞬の間だったようだ。

――― あれは、まさか……、あのときの……。婆ちゃんがチョコレートケーキを買ってくれた、あのときの……。だとしたら、ずっと思い出せなかった、子供の頃俺が見ていた不思議なものというのは、未来の俺自身の姿……。そんな…… ―――   

何故だか分からないが、智は涙を流していた。

――― 何故だろう? どうして、俺は泣いているんだろう……? ああ、婆ちゃん……。優しかった、婆ちゃん……。子供の時の俺は、何にも知らなかった。世界がこんな風になっていて、こんな人達がいて、そして、こんなにも温かいなんて……。ああ、婆ちゃん、ありがとう。俺は、あなたのおかげでこんなに色んなものを見ることができました。色んなことを、知ることができた。あなたがここまで育ててくれたおかげで…… ―――   

智は、人知れず頬を伝う涙を拭った。

有効に使い切って

「ババ、カレーに入ってるこのチキン、ババが持って来たの?」

ババは、もぐもぐと口を動かしながら、イエス、と言った。

「それってもしかして、昨日、俺がココナッツ買ったお金使って買って来たものなの?」  ババは再び、イエス、と頷いた。どうしてそんなことを聞くんだ?、というような表情で智の顔を眺めている。智は更に尋ねた。

「せっかく稼いだお金なのに、どうして全部使っちゃうのさ? チキン一羽買ったら俺が昨日払った百五十ルピーなんて、すぐに無くなっちゃうだろ?」

ババは、カレーを食べる手を休めて、全く訳が分からないという風に首を振った。

「一体お前は何が言いたいんだ? わしが稼いだ金をわしが使って、何が悪いというの
だ? 使ったら無くなるのは当たり前ではないか。それともお前は金を稼いでも使わずに一生とっておくとでも言うのか?」
「いや、そういう訳ではないんだけど……」

ババは、再び不思議そうに首を振った。

「そういう訳ではないんだけど……、全部使わなくたって少しずつ使っていけばいいじゃないか……。そんなことしてたらお金なんてすぐに無くなっちゃうよ」
「何を言っておるのだ? 金など無くなったらまた稼げば良いではないか。金など持っていても、使わなければ全く意味がないだろう?」

ババにそう言われて智は何も言えずに俯いてしまった。確かにババの言う通りなのだが、金が無くなったら誰でも不安になるだろう? その時また稼げる保証など何も無いではないか。だから人は、いざと言うときのために貯金をしておくのだ。しかしババの言う通り、一体何人の人が自分の持っている金を有効に使い切って死んでいくことだろう? そのことを考えれば、あんまりがむしゃらで無目的な貯金は、当てが外れているのかも知れない……。

智は、昨日稼いだお金を次の日に全て使い切ってしまうようなババのやり方に、目からウロコの落ちる思いがした。何故だかとても心を動かされた。自由な生き方だと思った。何ものにも捕われることなく、一日一日を流されるがままに生きていく。金が無くなったら、稼げばいい。稼げなかったら、稼いでいる人達から分けてもらえばいい。全く自然なことだと思った。そして智がずっと探し求めていたものは、実はババのような自由さなのかもしれなかった。

――― ああ、自由 ―――   

智は、谷部や建や壁の落書きの言っていた「自由」という本当の意味を、ようやくちらりと垣間みたような気がした。

一朝一夕で

智は、当初、手でカレーを食べるということに対してどうしても抵抗があった。日本食で言うと寿司やおにぎりなどのように形の整ったものならまだしも、カレーのような非固形物を手をスプーン代わりにして食べるのは、非合理だし、手がカレーまみれになって見た目もあまりいいものとは言えない。食べにくいばかりでなく、非衛生的でもある。しかしインドに長く滞在し徐々にインド文化に慣れていくに従って、今まで見えなかった様々なものが見えるようになり、それまでとても理解できなかったようなことが何とか理解できるようになってきた。そしてそれにつれて、インドの食習慣に対して智が抱いていた印象も、だんだんと変わっていったのだ。

例えば、インド人は、コップで水を回し飲みするときなど決して直接口を付けない。口から少し離して、コップから水を落すようにしてそのまま流し込む。口からこぼさないように、器用にゴクゴクと飲み干してしまうのだ。初めてそれを見たとき智は、それに大変感銘を受けて、すぐさま真似して同じようにしてやってみたのだが、喉に直接水が当たるのでむせ返ってしまい、とてもインド人のように上手くはできなかった。どうやらそれにはコツがいるようで、一朝一夕でできるものではないらしい。では、何故、そんな特別な技術を身に付けてまでコップに口を付けることを避けるのかと言うと、彼らは、他人の使ったコップで水を飲むのが嫌だからなのである。それが、洗ってある、いないに関わらず、一度でも他人が口を付けたものは全て不浄のものとみなし、間接的にでもその食器を使うのは、自分の身を汚す行いであると受け止めているのだ。それは、カレーを手で食べるという行為にも通じており、人の使ったスプーンやフォークを使うぐらいなら、きれいに洗った自分の右手を使った方がよっぽど清潔である、という論理なのだ。言わば、極度の潔癖性と言うこともできる。ちなみに、どんな安食堂にもちゃんと手を洗えるように小さな洗面台が必ず付いており、インド人は、食事の前には必ずそこで丁寧に手を洗っている。同じように、ババや岳志がよくやる、ジョイントを指で挟んで口に付けずに吸う吸い方も同じ理由から来るもので、智はようやくそれを理解するに至ったのだ。それらに気が付いてからの智は、今までとはインド人を見る目が変わり、不潔のように見えていたその行いも全く違ったものに見え始め、拙いながらも彼らの真似をして手でカレーを食べようと試み始めたのだった。

智は、急にその時のことを思い出し、久しぶりに手で食べてみようと思ってスプーンを置いた。すると智のその様子を見たババは、うむうむ、と顎の髭を撫でながら、満足そうに頷いた。

チャラスのキマッた頭で食べるチキンカレーは、えも言われぬ程のおいしさであった。指先に伝わってくる汁のようなカレーの熱さと、ぱさぱさの細長い米の感覚。そして口の粘膜を痺れさせるような、風味を伴った辛さ。それら全てが混ざり合い、智は全身でカレーを味わった。店内の男達は皆カレーを食べている。智の様子を見ていた岳志も、スプーンを置いて手を使って食べ始めた。みんな笑顔だ。笑顔でおいしそうにカレーを食べている。プレマとアナンは、そんなみんなの様子を見てとても満足そうだった。

智は、ふと、ババがチキンを持って来たことを思い出した。そして、それがババが自分の金をはたいて買ってきたものであるかどうかということの真意を、どうしてもババに尋ねてみたくなっていた。

インド式で

「やっぱりそうやって色んな人の手に馴染んできたものだから、独特の風合いが出てるんだろうな。そのチラムの美しさっていうのは、もちろん作った人の技術やセンスっていうのもあるんだけど、それ以上に、そのチラム自身が歩んできた歴史的な要因が大きく作用していると思うんだ。色んな人間の皮膚から滲み出る油が染み込んで、それが光沢に変わったり、使い込むことによって徐々に手に馴染んだ形になっていったり……。要するにそれらの”物語り”がチラムの中に詰め込まれていて、いいものっていうのは、チラムに限らずどんなものでも、そういう物語りのようなものを内に秘めてるものなんだ。それは、見てるだけで人の想像力を掻き立てるようなものだから、いちいちそれにまつわる説明を聞かなくても自ずと分かってしまうものなんだよ。だから、まだ智の説明を聞く前、そのチラムを見た時に、俺は、何となくそんな物語りのようなものを感じとっていたんだ。ああ、きっとこのチラムは、色んな人達に出会って色んな人達の思いを吸い込んできたんだろうな、って。アンティークの良さだよな。それは。俺は、アンティークが好きなんだ。見てるだけで色んな物語りが想像されてくるから。いくら見てても飽きないんだよ。そのチラムには、どこかアンティークのような、そういう雰囲気を感じたのさ」

感心しながら智は岳志の話を聞いた。

「さすが買い付けをしているだけありますね、岳志さん。するとこのチラムは、アンティークという訳なんですか?」

智は、手にしたチラムを今までとはまた違った心持ちで眺め返した。

「そうだな。アンティークと言える程古いものではないけど、本質的な意味ではアンティークだと思うな。俺は、やっぱり、物に人の面影や歴史が写っているのがアンティークだと思うから。そういう意味でそのチラムは、十分アンティークと言い得るものだよ」

岳志の目をじっと見つめながら智は神妙な面持ちで頷いていた。そういう話をしている時の岳志の目は、やはり透き通っていて、とても涼やかだった。

「まあ、アンティークの話はいいんだけど、多分今晩は、また盛大にボンすることになると思うんだ。だから俺のチラムだけじゃ足りないだろうから、それで智に持って来てもらったんだよ」
「えっ、そうなんですか? チラムを何本も回す程、盛大に……。大丈夫かな、俺……」 また意識を失うようなことになりはしないかと、智は少し不安な気持ちになった。岳志は、そんな智を見つめながら、ゆっくりと消えかけのジョイントを灰皿で揉み消した。

しばらくするとババと大勢の仲間達が、一斉にマニカラン・ゲストハウスに現われた。メンバーは、見るからにサドゥーといった者が二三人と後は近所の男達といった所だ。店の中は一気に満席になった。

さっそく方々でチャラスの煙の上がる中、プレマが、出来上がったチキンカレーをテーブルに運んできた。めいめいが皿を片手にカレーをよそい、それぞれの席でそれを食べ始める。席に座りきれないものは、床に腰を下ろして片手で皿を持ったまま、空いたもう一方の手を使って手づかみで食べる。智の正面に座った今晩の主賓、クレイジーババを始め、殆どのインド人達が、豪快に右手を使ってカレーを食べている。智がスプーンを使おうとすると、目の前に座ったババが、目を閉じゆっくりと首を振りながら、ユーアー・ヨーロピアン・ウェイ、アイ・イート・インディアン・ウェイ、と言った。要するに、お前は、西洋式にスプーンを使ってカレーを食べるのだろうがそれは間違っており、わしは、本来のインド式で食べるのだ、そしてそれこそが正しいカレーの食べ方なのだ、という意味のことを暗に仄めかしているのだ。智は、ババにそう言われてインド人らしい自分第一主義の傲慢さが鼻につかない訳ではなかったが、近頃ツーリストレストランばかり行っていたため手を使ってカレーを食べるという本来のインド的な行いを忘れてしまっている自分に、改めて気が付かされたのだった。

相当いいもの

何も思い出すことのできない自分自身に、智は、呆れ返るようにぐったりと項垂れた。

「今日は何人かで来てたな。ババがもう一人と、あとはアナンの知り合いっぽいインド人達が数人と。結構騒がしかったんだよ、店の中は」
「そうだったんですか……。そんな騒ぎにも全く気が付かずに、俺は意識を失っていたんですね。もうその人達は帰っちゃったんですか?」

智は、店の中を見渡しながらそう言った。店の中には岳志以外の人影は見当たらなかった。良く見ると、カウンターの側の長椅子に疲れ切ったアナンが寝そべっていたが、その他は、台所の奥からプレマが料理を作っているらしい音の聞こえてくるだけだった。

「ああ。でも、また後で戻って来るって。そうそう、ババがチキンを持ってきてくれたんだよ。まだ生きてるやつを一羽丸ごとさ。プレマにこれでカレーを作ってくれって。多分あれ、昨日智がココナッツ買った金で買ったんだぜ。それで皆を引き連れて来たんだな。アナンに酒を用意しといてくれって頼んでたのも、きっと最初からここで宴会するつもりだったからだ。それでプレマは、今、鳥をシメてチキンカレーを作ってるって訳だ」

智は、岳志のその話を聞いて少し意外な感じがした。どう見ても裕福そうには見えない身一つのあのババが、せっかく稼いだお金を散財して皆にごちそうするなどということをするだろうか?

「あのババがそんなことするんですかね?」

智は、手に持ったジョイントを深々と吸い込みながらそう言った。体に侵入していくチャラスの煙が、ようやく収まってきたスペースケーキの効き目を再び呼び覚ますかのように智の胃袋の底の方を刺激した。その刺激に智は少し顔をしかめた。

「どうだろう。その辺の所は本人に聞いてみないと分かんないけどね。インド人の考えることは今だに俺には良く分かんないからさ。ハハハ、多分、ずっと分かんないんだろうけどね」

岳志は、そう言って笑いながら智の手からジョイントを受け取った。

「あっそうだ、智、チラム持ってきた?」
「チラムですか? ええ……、確か、持ってきたと思いますけど……」

智は、自分のバッグの中を改めた。細長い巾着のような布製のケースに包まれたそれは、すぐに見つかった。智は、チラムをケースから取り出すと岳志に手渡した。

「おお、これか、智が言ってたチラムは……」

それをを手に取ると岳志はじっくりと眺め回した。たまに表面を撫でたり、穴を覗き込んで光に翳したりしている。そしてしばらく考え込むようにじっと佇んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「いいもの貰ったね、智。これは相当いいものだよ。こんなにきれいなチラムにはなかなかお目にかかれない。イタリアンチラムの中でも、かなり質のいいものだと思うよ」

岳志は、慎重にチラムを智の手に返した。

「そうなんですか。俺も、きれいだなとは思ってたんですけど、そんなに価値のあるものだとは……。デリーで出会ったある日本人に貰ったんですよ。その人も確か旅仲間のフランス人から貰ったって言ってました。そのチラムは、そうやって何人もの手から手へと渡ってきたものらしいんです」

岳志は、フムフム、と頷きながら智の話を聞いた。