ライター:さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

――― 一体、アナンの人生には今まで何があったのだろう? ―――
智は思った。
――― 岳志は、最初に触れて以来決して刑務所の話には触れようとはしないが、やは
り、それが彼の孤独の原因なのだろうか。一体アナンは何を見てきたというのだろう……。
プレマはプレマで、そんなアナンの暗闇には全く気が付いていないように、いつも満面の
笑みを浮かべながらとても元気にアナンに接している。彼女はまるで太陽のように輝いて
いる。アナンもプレマのそんな元気があるからこそ、何とかやっていけるのかも知れない
が…… ―――
しかしアナンは、そんな風に暗い顔をしていても、岳志や智が声をかけるとすぐににっ
こりと微笑んでそれに応えるのだった。アナンのそんな笑顔を見る度、余計に彼の苦悩の
深さを智は見るような気がした。そして彼を、気の優しい男なのだな、とつくづくそう思
った。この時も、アナンの肩を叩いて岳志がジョイントを回すと、アナンは、すぐににっ
こりと微笑みながらそれを受け取った。そしてジョイントを吸いながら、智のチャイのグ
ラスが空いているのに気が付けば、もう一杯飲むか?、とか、そろそろ腹が減ってきた頃
ではないか?、とか、色々尋ねて気を遣う。そんなアナンの優しさに触れる度、とても心
が安らいでいくのを智は感じた。そして、人間の本当に求めているものなど実は何でもな
い、ただ、こういった少しの優しさにすぎないのであって、それさえ常に実感として感じ
ることができていれば、この地球上につまらないいざこざなど何も無くなり、他人を信じ、
お互いを助け合う素晴らしい世界が出来上がるのではないか、と、そんな大げさなことま
でも智は夢想するのだった。智は、自分もアナンのように、例えいくら自分の置かれてい
る状況や精神状態が深刻なものであろうとも、それとは関係なく、他人には常に笑顔でい
られるようなそんな素晴らしい人間でありたい、とそう思った。しかし最近の自分の行動
を振り返ってみるといかに自分がそんな人間からは程遠い、未熟な精神を持っている人間
であるかということがありありと実感させられ、智は、とても落ち込んだ気分になるのだ
った。それは例えばマナリーに来るまでの車掌とのいがみ合いや、その後、八つ当たり気
味に周りの人間全てを呪ったことなどを思い出すだけでも十分確信できることだった。智
は、目指す道のりの遠く険しいことを身に染みて実感した。
そんなことを智がボーッと考えていると、アナンが、どうかしたのか?、という具合に
指につまんだジョイントを智の目の前で左右に揺らした。智は、我に返ってそのジョイン
トを受け取った。そしてそれを一服吹かしてチャイのグラスを口に持っていこうとしたち
ょうどその時、戸口の所に誰かがじっと立っていることに気が付いた。智は、驚いて思わ
ず、うわっ、と大きな声を上げた。岳志が、急にどうしたんだよ、と智に尋ねると、智は
黙って戸口を指差した。
スティッキー・フィンガーズはある旅行者の実体験をもとにしたフィクションであり、ドラッグを推奨したり礼賛するものではありません。


