« マトン | メイン | 二十歳 »

Mar15

ロカ岬

「どうしたんですか、智さん、大丈夫ですか?」
 幸恵は、慌てて智にそう声をかけると、大声で店員を呼んで、濡れタオルを持って来て
下さい、と叫んだ。智は、幸恵の大きな声に驚いて、いや、大丈夫、大丈夫、とそれを制
するように言った。幸恵は、しばらく心配そうに智を見ていたが、鞄の中からハンドタオ
ルを取り出すと、コップの水で湿らせてそれを智に手渡した。
「智さん、これ、使って下さい。あんまり冷たくないけれど、当てていればちょっとは楽
になるかも……」
「ああ、ありがとう」
 智は、幸恵の気遣いを嬉しく思った。
「どうしたんですか? 体調悪いんですか?」
「ああ、ちょっとね。何だか風邪を引いたみたいなんだ。でも、そんなに大したことない
から大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「そうですか。それならいいんですけど……」
「今は急に痛みが走ったんでちょっと驚いただけで……。もう、大丈夫だよ」
 幸恵は心配そうに智を見ている。先程の幸恵のとっさの対応のおかげで、店内にいる日
本人旅行者達は皆智の方を注目していたが、騒ぎが収まったと分かると自然と元の会話や
食事に戻っていった。智は、自分に注がれていた視線が外されたのを確認して、幸恵に、
何の話をしていたんだっけ、と尋ねた。幸恵は、えっと……、そうだ、ポルトガルの話で
すよ、と言った。ああ、そうだそうだ、と智がそれに納得していると、幸恵は続けた。
「どうしてロカ岬に行こうと思ったんですか? あ、やっぱり"深夜特急"ですか?」
 瞳を輝かせながら幸恵はそう言った。
「いや、そうじゃないんだ。実は俺の友達が、俺よりも先にアジアからヨーロッパへと旅
してて、そいつが最後に辿り着いたのがロカ岬だったんだ。それでそいつが帰って来て色
んな話を聞かされてたら、俺も負けてられないな、と変な対抗意識が芽生えてしまって…
…。ユーラシア大陸最西端っていうのも何だか魅力的な響きでしょ。だから、とりあえず
そこを目指してみるか、と、漠然とそう思ったんだ。別に"深夜特急"に影響された訳で
はないんだ。実は俺、あの本は途中までしか読んでいないし……」
 幸恵は、再びステーキを口に運びながら、真剣に智の話を聞いている。
「そうだったんですか……。でもやっぱり、智さんのような人にはお友達にも凄い人がい
らっしゃるんですね。私の周りにはそんな友達全然いなくって、私は、ひたすら旅に関す
るそういう本ばかり読んでたんです。もちろん沢木耕太郎の"深夜特急"も全部読んでま
すよ。だからひょっとしたら智さんもそうなのかな、と思って」
「いや、全く読んでない訳じゃなくって、途中までなら読んでるんだ。でも、旅に出てか
らなんだけど。香港にいた時にね、そこで出会った日本人がやっぱり"深夜特急"が好き
で、ちょうど香港編を持って来てたんだ。俺はそれを借りて読んだんだけど、現地で読ん
でる訳だから物凄くリアルでね。主人公にすんなりと感情移入してしまったよ。面白かっ
たなあ。そして読み終わったその晩に、それを貸してくれた奴らとマカオのカジノへ行っ
てさ。本当に香港編そのままだったよ。考えてみればそれって、凄く贅沢なことだよね。
ああ、あの時は本当に楽しかったな」

スティッキー・フィンガーズはある旅行者の実体験をもとにしたフィクションであり、ドラッグを推奨したり礼賛するものではありません。

コメントを投稿

コメントは承認後に表示されます。メールアドレスは表示されません。