ライター:さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

智は、重たい体を引きずりながら、今まで撮り貯めたフィルムを現像するために思い切
って外へ出た。いつも半年分ぐらいまとめて出すようにしていたので、三十六枚撮りのフ
ィルムが猶に十本以上は貯まっている。写真を現像するのは楽しみだった。写真を見てい
ると、忘れていたような旅の光景が次々と現れて来るので、ついついそれに没頭してしま
う。それは、自分が旅をしているということを、実感として再確認できる瞬間だった。
写真屋の店主は、サリーを着た割腹の良い中年婦人で、智が持ち込んだ十数本のフィル
ムを少々驚いたように眺めながら、智に尋ねた。
「一体、何をこんなに写したんだい?」
智は微笑みながらこう答えた。
「インドの色んな所ですよ。ずっと旅してるからたくさん貯まっちゃったんだ」
婦人は、目を見開いて、ホーッと感心するように言った。
「そうなのかい。インド中をねえ……。あたしはずっとこの辺りで暮らしているから、他
の土地のことは良く分からないんだよ。ジャパニーズのあんたの方が、余程インドのこと
を知っているんだね」
「知っているって言ったってそんなに長くいる訳じゃないから、マダムにはかなわないよ。
僕は、所詮、旅をしているだけだもの」
智がそう言うと、婦人は微笑みながら軽く首を傾げた。その様子を見ながら智は、彼女
がずっとデリーにいてインドの他の地域のことを全く知らないでいることに、少し驚きを
覚えた。しかしよく考えてみるとそれは、ごく当たり前のことなのかも知れない。世界で
も指折りの国土面積を誇るインドの国をくまなく旅するなど、よっぽど金と暇がないと無
理な話だろう。日本のように電車や飛行機がスムーズに機能していれば話はまた別なのか
もしれないが、これはインドでの話である。そんなにスムーズに行く筈がない。スケジュ
ールの何倍もの日にちとお金がかかることは確実だろう。そんなことをしようと思うのは、
智達のような物好きなバックパッカーだけなのだ。
「あたしには、南インドなんて想像もつかないもの」
笑いながら婦人はそう言った。智も笑ってそれに答えた。彼女が見たことのない南イン
ドの風景を、確かに自分は知っている。何だかそれは、とても奇妙なことのように思えた。
写真ができるまでの間、智は、旅行者の間で有名な「ゴールデン・カフェ」という日本
食レストランへ行って時間を潰すことにした。さすがに有名なだけあって、店内には日本
人とおぼしき旅行者達が何人もいた。
智は、彼らに軽く挨拶をしながら一人で席に着いた。テーブルの上には日本語で書かれ
た旅の情報ノートが置いてあったので、暇つぶしにぱらぱらとめくってみる。腹が減って
いる訳ではないので、インドでは最もポピュラーな飲み物の一つである「リムカ」という
名のレモンスカッシュのような炭酸飲料を、智は注文した。
スティッキー・フィンガーズはある旅行者の実体験をもとにしたフィクションであり、ドラッグを推奨したり礼賛するものではありません。


